日系アメリカ人タイムライン1843-2000
                                      
                                               2004年9月22日公開


                                    製作責任者: 梅井彩子・市村真理子
                                   (亜細亜大学国際関係学部千葉ゼミ4年)

参考文献:作成に当たっては以下3点の書物の中に収録された年表をベースにした
Kim, Hyung-Chan, Dictionary of Asian American History(New York: Greenwood Press, 1986)
Knoll, Tricia, Becoming Americans: Asian Sojourners, Immigrants, and Refugees in the Western
 United States
(Portland, OR: Coast to Coast Books, 1982)
Niiya, Brian(ed), Encyclopedia of Japanese American History (New York: Checkmark Books, 2001)   


1843 マンジロウ・ナカハマ、ホイットフィールド船長に救助され、マサチューセッツ州ニューベッドフォードに到着
1850 ヒコゾウ・ハマダ、アメリカの帆船に救助され、サンフランシスコに到着。ボルティモアで教育を受け、日本人として初のアメリカ市民となる
1854 日米間で神奈川条約(日米和親条約)締結
1858 日米間で江戸条約(日米修好通商条約)締結
1860 マンジロウ・ナカハマ、日本の使節団通訳として咸臨丸でサンフランシスコに到着
1864 新島襄、上海経由で合衆国に密航
1868 ハワイに元年者として知られる153名の日本人が到着
1869 最初の日本からの本土への移住者、カリフォルニアのゴールドヒル到着。茶と生糸生産を目的とするワカマツ・コロニーは三年で失敗
1870 アジア系は合衆国市民権の取得資格無しとされる
1871 日本とハワイの間で友好通商条約が締結
1872 日本が結んだ不平等条約について再交渉すべく岩倉使節団がアメリカ合衆国に派遣される
1875 この年の法律で帰化権を与えられるのは自由白人、アフリカ系のみとなる
1876 6人の日本人が乗ったオセアニック号がニューヨークへ到着
1877 日本人学生によりサンフランシスコに日本人福音会が誕生。
1880 1871年から1880年の間10年間で、149名の日本人がアメリカ合衆国へ移民(国勢調査)
1881 ハワイのカラカウア王が日本・ハワイ両国間の関係緊密化のため来日
1882 ジョン・カペナ、ハワイ政府の命により日本人労働者移住許可を懇願するため来日
1885 公式移民として944名の日本人労働者がハワイに渡る
1886 サンフランシスコで初の日本語新聞創刊(「シノノメ・ザッシ」)
1888 亡命した自由民権運動の活動家がサンフランシスコで愛国者同盟(Patriotic League)を結成
1889 オレゴン州ポートランドに最初の日本人のビジネス誕生(レストラン)
1890 日本で教育勅語発布。アメリカの日本語学校においても採用されることになる
1891 サンフランシスコで大日本人会(Greater Japanese Association)が結成
日本人排斥が起こることを危惧し大日本人会、日本国外務省に日本人売春婦の移住停止を求める
1892 サンフランシスコで最初の反日系人運動が始まる。
サンフランシスコで愛国者同盟が日本語新聞「ソーコー・シンブン」を発刊
ハワイで「ニッポン・シューホー」創刊。最初の日本語の新聞
1893 サンフランシスコ教育委員会が日本人を中国人学校へ通わせる決定を下す
1894 サンフランシスコで日本語新聞「シンセカイ」創刊
日本人男性サイトウが市民権を申請するも、地方裁判所は彼が自由白人でないことを理由に拒否する
1895 ハワイのマウイ島に最初の日本語学校設立
週2回発行の「ヤマト」がハワイで発刊
1896 ハワイで日本人及び中国人労働者の代替として、韓国人労働者導入が提案される
1898 福島県から初の約100人の移民集団がハワイへ到着
1899 「ソーコー・シンブン」と「ホクベイ・ニッポー」が合併し、「ニチベイ・シンブン」が創刊
1900 合衆国内の日系人人口25,000人
1901 合衆国内の主要な請負業者が署名した、日本人労働者の入国禁止の停止を求めるアピールが日本国外務省に提出される
1902 日本政府がアメリカの日本人労働者に対して再入国規定を緩める
1903 ロサンゼルスで「ラフ・シンポー」が創刊される
1904 ハワイで日本人労働者による大規模なストライキが起こる
1905 サンフランシスコで公式な排日運動としては初のアジア人排斥同盟が設立された
1907 日米間で紳士協定締結。日本政府、移住者への旅券発行を停止
1910 日本人男性との婚姻が整った写真花嫁がアメリカへ到着
1911 タフト大統領、カリフォルニア州の反日法可決を阻止
1912 初の日本人ブロードウェイ俳優が誕生(ヨーシン・サクライ)
1913 カリフォルニア州、他州に先駆け外国人土地法発効
1914 カリフォルニア州での日本人移民に農地を貸すことを禁止する法律制定の動きが日本の反発を生む
1915 ブンジ・スズキがカリフォルニア州労働連盟の会議に参加するが、日本人労働者の地位は変化せず
1917 合衆国国務省が写真結婚を法的に承認し、写真花嫁とその配偶者が合衆国内での再度の結婚式を省くことを許可
1919 米国日本人会(Japanese Association of America)、反日感情に配慮して写真花嫁入国取りやめを声明
1920 合衆国内の日系人人口111,000人
1921 ワシントン州議会、外国人土地法可決。日本人はアメリカ市民になる意思を宣言できなかったので、日系人には適用されず
1922 ケーブル法通過(アジア系の女性市民が市民権取得資格を持たぬ外国人と結婚した場合は市民権を失うという法律)
最高裁、オザワ対合衆国訴訟について裁定(人種という観点から日本人の帰化を禁じる内容)
1923 トーマス・ヤタベを会長としAmerican Loyalty Leagueが設立(後の日系市民連盟JACLの前身)
1924 クーリッジ大統領、改訂移民法に署名(排日移民法発効)
1925 合衆国最高裁、第一次世界大戦への従軍に対して与えられたヒデミツ・トヨタの市民権を剥奪
1926 「ラフ・シンポー」が週1回、英語版の発行を開始
日本国外務省、正式にアメリカ日本人協会との関係を停止
1928 シアトルで2世を購読対象とする週刊「ジャパニーズ・アメリカン・クーリエ」1号発行
1929 サブロー・キド、トーマス・ヤタベ、クレアレンス・ アライが日系市民連盟(JACL)の設立を提案
1930 日系市民連盟(JACL)第1回会議がシアトルで開催
1932 アイダホ州知事ベン・ロスの反対者が知事の日系一世への農場賃貸借を非難する新聞広告掲載(ロスは知事選で再選される)
1934 アリゾナ州ソート・リバー・ヴァレーで白人農場経営者らがすべての日系人に1週間以内に地域から退去するよう求めた
1935 ハワイを州に昇格させる法案が初めて下院に提出される(日本人が選挙で多数派になるという不安が公聴会で証言された)
1938 日本の戦争努力を支持するためにハワイ、ヒロ島の住民がJapanese Patriotic Bondsの結成運動を開始。100万円以上の募金を達成
1940 JACLの指導者たちがロサンゼルス市議会のメンバーに対して合衆国への忠誠を確約
1941 大統領命令で合衆国内の日本の資産が凍結される(日本系銀行への取り付け騒ぎ)
日本軍による真珠湾攻撃(日米開戦)
1942 大統領行政命令 9066号公布(11万の日系人の西海岸からの強制立ち退き・転住を可能にする)
西部防衛司令部ディウィット司令官、強制立ち退き・収容実施に向け布告1号、2号を発令
日系市民、西海岸地域から排除される
1943 ヤスイ対合衆国、ヒラバヤシ対合衆国訴訟判決(日系人に対する夜間外出禁止令を合憲とする)
テュール・レイクで日系人に対する忠誠審査が始まる(国家に忠実なものと、そうでないものの区分け)
1944 二世の徴兵への応募資格が回復する(この年、ワイオミング州ハートマウンテン収容所内で二世の若者たちが集団で徴兵を拒否し、収監される)
カッシーノの戦闘(日系人の第100歩兵大隊、カッシーノの奪取に貢献)
第442連隊戦闘部隊、敵に包囲された米軍の大隊を救出
コレマツ対合衆国訴訟判決(日系人への退去命令を合憲とする)
合衆国対エンドウ訴訟判決(国家に忠実な市民を意に反して拘留してはならぬと裁定)
1945 広島、長崎の原爆投下(日本の降伏)
戦争花嫁法(1946年から1953年の間に2042名の日本人女性の入国が許可される)
1946 第442連隊戦闘部隊、ホワイトハウスでトルーマン大統領の接見を受ける
1948 大統領、日系人強制立ち退き賠償請求法に署名(失われた$1に対し10セントの賠償)
ハロルド・サカタ、日系人としての初のオリンピック・メダル獲得(重量挙げライトヘビー級銀メダル)
最高裁、異人種間結婚に対するカリフォルニアの法による禁圧を違憲と裁定
1949 ハワイで178日間に及ぶ港湾労働者のスト
1950 前年のスト指導者の共産主義活動に関する下院非米活動委員会の質問に答えなかったハワイ在住の日系市民39名、告発される(マッカーシー旋風の余波)
1952 カリフォルニア州の最高裁、外国人土地法を違憲と裁定
マッカラン法、上院を通過(日本人にも移民枠を認め、さらに一世の帰化を認める)
トミー・コンノ、日系人として初のオリンピック・金メダル獲得(重量挙げライト級)、これ以外にも日系人は4つの金、1つの銀、2つの銅を獲得
1953 ワシントン州でジョナサン・マチダ牧師が、カリフォルニア州でゴンキチ・ヤナギが、それぞれ一世として最初の帰化を達成
ジョン・アイソ、日系アメリカ人初の判事となる(ロサンジェルスの都市裁判所)
1954 「復員軍人の日」を祝い、5万人の新市民の帰化が実現(ハリウッド・ボウルの式典には1024名の一世が参加)
1955 「サタディ・イブニング・ポスト」にカリフォルニアの日系人を称える記事が載る
1956 「リーダーズ・ダイジェスト」の記事が戦後の驚くべき日系人の命運の転換を激賞する
カリフォルニアで第13号提案が可決(外国人土地法を法律集から削除した)
1957 NBCの「これがあなたの人生」、JACLのマイク・マサオカの特集番組を制作する
セッシュー・ハヤカワ、映画「戦場にかける橋」に主演
1958 日本人で初のアカデミー賞受賞(ミヨシ・ウメキ 「サヨナラ」で最優秀助演女優賞)
1959 戦時中及び戦後に脅迫されて市民権を放棄した4978名の二世の市民権が回復する
ダニエル・イノウエ、下院議員に選出さる
1961 日系二世が南カリフォルニア日系アメリカ人コミュニティ・サービスJACSを設立
1962 JACL、ABCテレビがJAPという日本人への蔑称を用いたことに抗議する投書作戦を展開
ハワイ州で初の日系人上院議員誕生(ダニエル・K.・イノウエ)
アイダホ州が帰化したアジア系市民に対する法的差別を廃止(全米に残った最後の差別で、投票権などを認めていなかった)
1963 キング牧師、ワシントン大行進に集った20万の参加者を前に「私には夢がある」演説
1964 パツィ・タケモト・ミンク、初のアジア系アメリカ人女性として国会議員に選出
1965 ケイサブロウ・コウダの一家が日系人強制立ち退き賠償請求法により362500ドルの賠償を得る(一家の損失の推定額は240万ドル)
ジョンソン大統領、1965年の移民法に署名(1924年の移民法を破棄し、多くのアジアの国々からの移民者の数を拡大)
1966 「ニューヨーク・タイムズ」が「サクセス・ストーリー:日系人のスタイル」を掲載
ミツヨシ・フクダ、日系人として初のビッグ5企業(Castle & Cooke)の副社長に就任
1967 最高裁、第2次大戦開始時に差し押さえられた日系人の預金は回復可能と裁定
1968 「三世の関心事」がUCLAで発足(同年、他のアジア系を加え、「東洋人の関心事」に発展)
ダニエル・イノウエ上院議員、シカゴの民主党全国大会の基調演説を行う
「東洋人の関心事」がカリフォルニアのレイク・アロウヘッドでの集会参加を呼びかける(200人以上出席)
1969 UC Berkeleyで日系人アメリカ人研究のコースが開設(80人定員に100人が登録)
英語で書かれた日系アメリカ人の週刊タブロイド誌(The Hawaii Herald)創刊
UCLAでアジア系アメリカ人研究のコースが開設
サンフランシスコ州立大学、全米初のエスニック・スタディ学部で初のアジア系アメリカ人研究プログラムを開く
年に一度の「マンザナ-巡礼」がスタート(各強制収容所への同様な巡礼の先駆)
1970 200人のアジア系アメリカ人、ロサンゼルスのリトル東京での「アジア系アメリカ人の平和のためのマーチ」に参加
JACLの北部カリフォルニア・西部ネヴァダ地区会議、第2次大戦中の強制収容の賠償要求決議を発表
1971 ノーマン・ミネタ、日系人で初の主要都市の市長になる(サンノゼ市)
1972 パツィ・タケモト・ミンク、民主党大統領候補に名乗り(日系人で最初)
1973 ジョージ・アリヨシ、アジア系で初のハワイ州知事となる
1974 「強制収容所アメリカ---過去と現在への賛辞」と銘打ったサンフランシスコのコミュニティ・フォーラムに400人が参加
ノーマン・ミネタ、米本土で日系人として最初の下院議員に選出
1975 サン・ファーナンド・ヴァリーのJACL、大戦中の強制立ち退き・収容に対する賠償に関する公開フォーラムを主催
1976 第2次大戦中の日系人強制立ち退き・収容の原因となった行政命令9066号、公式に廃止される
1978 ソルト・レイク・シティで開かれた 2年ごとのJACL集会で強制収容に対して一人25000ドルの補償を要求する決議が採択
1979 JACL代表との会合で4人の有力日系国会議員(イノウエ、マツナガ、マツイ、ミネタ)、大戦中の補償問題については金銭的補償より、過ちが犯されたことの公的認知を求めるべきと助言(穏健路線の採択)
JACL(「補償を求める全国連合」NCRR)の方針に不満を抱く日系人によって「日系アメリカ人の補償を求める全国会議」NCJARが結成
ダニエル・イノウエ上院議員、「戦時中の民間人転住と収容に関する委員会」を発足させるための提案を行う
マイク・ローリー下院議員、NCJARに支持された法案を提出(一人に15000ドルの賠償支払いに収容日数に15ドルを乗じた金額を上乗せするという人権侵害賠償法)
1980 カーター大統領、大戦中の日系人の収容を調査する「戦時中の民間人転住と収容に関する委員会」CWRICを発足させる法案に署名
1981 CWRIC、ワシントンDCで公開聴聞会を開く(他の都市でも開催される)
1982 マーヴィン・ディマリー下院議員、二つの補償法案を提出(一つは一人につき25000ドルの賠償を本人、あるいは配偶者、子供に払うというもの。もう一つは30億ドルのコミュニティ復興基金を創設するというもの)
1983 デール・ミナミとピーター・アイアンズの弁護士チーム、フレッド・コレマツのために自己誤審令状の請願をサンフランシスコ連邦地裁に提出(ヒラバヤシ、ヤスイについても同様の請願がなされる)
CWRIC、強制収容の体験者本人に20000ドルの賠償を払うという公式の勧告を議会に対して行う
下院多数党院内総務ジム・ライトによる法案提出(CWRICの20000ドルを飲んだ上、信託資金500万ドルと公式謝罪を含む)
サンフランシスコ連邦地裁、コレマツに対する1942年の有罪判決を無効にするとの裁定
1984 NHKの大河ドラマ「山河燃ゆ」のアメリカ国内での公開にJACLが反対する(帰米の扱いが問題)
1986 スペースシャトルの爆発事故で日系人飛行士エリソン・オニヅカ死す
パトリシア・サイキ、日系人の女性共和党員として初の下院議員に選出
1988 1988年の市民的自由法(大統領による公式謝罪と賠償金2万ドルの支払い)
1990 最初の補償金支払い9件が実施される(107歳のマモル・エトウ牧師が含まれる)
1992 冬季五輪のフィギュア・スケートで日系四世のクリスティ・ヤマグチ、金メダル獲得
ロサンジェルスのリトル・トウキョウ地区に日系アメリカ人博物館がオープン
1995 映画「ピクチャー・ブライド(写真花嫁)」が公開
1997 ジョン・ナカマツ、第10回クライバーン・ピアノコンテストで金メダル受賞
2000 ホワイトハウスでのセレモニーで第2次大戦で戦った21名のアジア系市民にアメリカ議会名誉勲章が授与される(そのうち19名が日系市民)
クリントン大統領、ノーマン・ミネタを商務長官に任命(アジア系初の閣僚)