「90年代の日本と韓国の社会変動と日韓相互認識研究の課題−若者研究の視点から−」

『国際関係紀要』第3巻第2号 亜細亜大学国際関係学部,1994.所収.

<紹介>
戦争責任、謝罪を表明した日本政府の決断以降、日本と韓国の相互認識はどう変化していくのか、そこでの若者の価値意識の分析の重要性を指摘しながら、その方向を検討。
日韓関係に関する調査研究を整理したうえで、日本と韓国を取り巻く国際情勢の変化、韓国ならびに日本の社会変動、そのもとでの双方の若者に見られる新しい価値観、行動を押さえた。そして、その若者の変化しつつある様相をどのように相互認識研究に組み込んでいくか、その際課題となる諸点の整理を試みた。


1.はじめに
日本と韓国の間には、戦後50年近く一貫して、相互認識のずれと改善の要求の歴史が積み重ねられてきた。事あるごとに韓国側では反日の運動が起こり、日本側では嫌韓と反省の入り交じった感情を高まらせてきた。93年秋の細川・金泳三両新首脳の会談によって、関係改善がもたらされると期待されてはいるものの、日本側が実質的にどこまでどのように対処するかは、依然として不明である。そしてこのような事の成り行きのもと、両国民の間には相変わらず反日と嫌韓の感情が流れている。
この両国民間の感情的しこりについては、これまで様々な調査研究が行われてきた。日本と韓国において、相互認識のずれは一つの大きな研究テーマであり続けてきた。この事実は、良くも悪くも注目すべきものである。それは、問題が無くならないからであり、他方その解決への糸口が繰り返し模索されてきたからである。実際、これらの調査研究には、問題解決への希望を託した目的意識と、両国民の意識の大きな懸隔を示す結果とが現れ続けてきた。
とはいえ両国民の意識は着々と変わりつつある。正確に言えば、変わらずを得ない状況にある。変化の行く末が予断を許さないにせよ、問題解決のために活動してきた人々のみならず、多くの人々の交流、両社会の政治経済的状況、そしてさらに広くは、世界的経済不況と東西冷戦構造の崩壊によって生じている米国をはじめとする国際環境の変動が、両国の人々の意識を変えつつある。
では、何が変わろうとしているのであろうか。また、何が変わらないのであろうか。変化の状況のなかで日韓両国民の相互認識の追究に現在最も求められるのは、これらの点を明らかにすることであろう。
しかし、そのためには特定の領域に焦点を絞りつつ複眼的アプローチを行なうことが必要である。ただし、その実際の展開は小論の範囲を越えると言わざるを得ない。そこで本稿では、この課題に応えるにはいかなる論点を踏まえねばならないかを、若者研究の視点に立って整理してみることにしたい。

2.調査研究の流れ
変化する・変化しないを問題とする以上、これまでどのようなアプローチによって、何が指摘されてきたのを、まず整理しておかねばならないであろうし、この際、どの時期を対象とするかを確定しておかなくてはならないであろう。このうち時期については、93ー94年を現在とするならば、今の若者の成長過程、ならびに日本と韓国の社会が共に大きな変化を経験したことを考慮して、基本的には70年代以降を対象とするのが適切であろう。
【種類】 以上の点を考慮しながらこれまでの日韓の相互認識の問題を扱った仕事を概観してみると、この問題を論ずる評論、現地レポートの類はきわめて多量に存在する一方で、それらによって指摘されあるいは伝えられる、通説や、新鮮ではあるが直感的かつ断片的な現象記述を、きちんと裏づける調査研究は多くないことに気づく。通説も新鮮な現象記述も、凡庸な調査研究よりよほど的確に実態を捉えていることは否定できない。しかし、それらは裏づけられないかぎり、本当に実態を捉えているのか確証を得られないことも事実である。調査研究が求められる。
ところで、それではこれまでどのような調査研究が行なわれてきたのか。それを概観しておくことが必要である。もっとも、その領域・種類は多種多様である。そこで、あえて若者に関わる「調査研究」と分類できるものを取り出して整理してみよう。
これは、1)歴史教科書の比較研究、2)新聞研究、3)意見・意識研究の三つに整理できるようである。
1)「歴史教科書の比較研究」は、若者研究とは間接的な関係にあるものの、教科書が彼らの成長過程での知識の重要な源の一つであることを考えれば、若者の対日・対韓意識を考える場合不可欠な領域である。それ以前から地道な試みはあったが、82年の、中国および韓国の政府による日本の歴史教科書への批判、いわゆる「教科書問題」を機に多くのグループが発足し、研究を積み重ねている(比較史・比較歴史教育研究会編 1991、山田・高崎・鄭・趙 1991、歴史教育者協議会編 1992)。日韓の教科書が取り上げる歴史事項の違い、個々の事項と流れについての解釈・説明の相違が、明らかにされている。また、教科書の記述だけでなく、教室での授業の進め方にも踏み込む試みもなされている。
2)「新聞研究」とは、日韓の新聞に見られる対日・対韓の意見・意識の分析である。韓国の対日の意見・意識には、政府、マスコミ、国民の三つの層があると言われるが、その中でマスコミすなわち新聞は、国民の意見・意識をリードし、また反映する位置にあるものとして重要である。この研究には、特定事件に関する記事ならびに有識者の発言の内容と国民の反応の分析をはじめとして、日韓双方の代表的新聞の「社説」の内容分析、さらに韓国の新聞への「投書」の分析などがある(吉永 1977-1978、宗 1982、渡辺 1982、金・崔 1982、李 1982、洪 1990、伊藤・田中 1991、金・李・金・李 1991、李 1992、熊倉 1992)。新聞以外のメディアの分析は、寡聞にして知らない。
3)「意見・意識研究」は、直接に若者の対日・対韓の意見・意識を対象とする、本稿で特に的を絞りたい調査・研究の領域であるが、これはさらに、a)在日韓国・朝鮮人、b)留学生、旅行・滞在経験者、c)日本・韓国の国内在住者(大学生・高校生・小中学生・勤労青少年)、のいずれを対象として取り上げているか、ア)自国・自民族の歴史とアイデンティティ、イ)対日もしくは対韓イメージ、ウ)対外・国際意識、のいずれに焦点をあてているかなどにより、整理することができる(1)。現在、「従軍慰安婦」をはじめ「強制労働・未払い賃金」「原爆被爆者」などの問題が注目されているが、こうした特定テーマをめぐる若者の意見・意識も、上のア)イ)ウ)のような文脈に置いて分析されうるものである。
【内容・傾向】 これらの調査研究によって、これまでどのような実態が明らかにされてきたのであろうか。ここでもいくつかのポイントが指摘できる。それを、1)相互の、関心の高低、好き嫌い、知識の有無の関係、2)過去の認識と未来への期待、3)相互交流の有無・その時間的長短の影響、に整理してまとめてみよう。
1)「相互の、関心の高低、好き嫌い、知識の有無」について、全般的には、次のように言える。韓国の若者は日本に関して、高い関心、強い反感、多いけれども偏った知識を持ってきた。他方、日本の若者は韓国に関して、低い関心、潜在的蔑視・排斥感、乏しい知識を持ってきた。この傾向については、特に韓国側には、日本の経済発展、科学技術などへの高い関心、文化領域への低い関心といったアンバランス、信頼がおけないからこそ関心が高くならざるを得ないという両義性があったことを、理解しておかねばならない(金・呉 1982,pp75-81、呉1991,109-114)。日本側には、過去の支配者としての差別意識、その恥ずべき過去に目をつむりたい欲求、常にアメリカに向いた関心、の複合があったことは明らかである(池田 1982,pp13-29、稲増・御堂岡 1991,pp6-7)。また、韓国と日本の若者の相手に対する関心、知識の量の違いは、教科書の記述、マスコミの扱い方に起因するものと考えられる。さらに、韓国のマスコミが反日感情を煽る傾向があったこと、日本のマスコミ大手が韓国に批判的な論陣を張ってきたことも指摘されている(宗 1982,pp122-141、渡辺 1982,pp172-174、金・崔 1982,pp232-238、洪 1990、伊藤・田中 1991,pp183-185、金・李・金・李 1991,pp243-246)。結果として、それぞれの国民の間に、相手国に対する偏見の枠組みが作り出されてきたのである。
2)「過去の認識と未来への期待」についても、両国のギャップが見られる。韓国の若者は、「韓国は日本への文化の伝授者で、かつ日本の植民地支配・虐政の被害者である」「日本の過去への反省は不充分でこれからも警戒が必要だが、これからの協力関係は不可欠である」「韓国はあと10年ほどで日本の経済水準に追いつくだろう」との認識を持ってきた(金・呉 1982,pp70-70-81、呉 1991,pp126-137)。これに対し日本の若者は、韓国を文化の伝授者として評価せず、植民地支配の事実を正確に知らない者が多い。さらに、「過去のことは早く忘れて友好関係を作るべきで、これまで経済的に援助してきたし、これからも、他の重要な国ほどではないが緊密な関係を持って行くだろう」と考えてきた(池田 1982,pp17-19、稲増・御堂岡 1991,pp57-73)。双方が経済的関係については比較的前向きに対応しようとしているのに対し、南北統一や在日韓国・朝鮮人問題を含めた過去の反省、政治的問題処理については認識の差が大きいのである。
3)「相互交流の有無・その時間的長短の影響」については、多く接触することが単純に両国民の良好な関係をもたらさないという、問題の複雑さが現われている。韓国の若者について見れば、対日接触は基本的には日本人のイメージを好転させるが、その接触が、単なる旅行でなく留学や仕事上の長期滞在のように長くなると、日本の社会全般に好意的になり日本人を身近に感じるようになるものの、逆に韓国への影響の大きさを深刻に警戒心を持って受け止めるようになる(金・呉 1982,pp84-105、呉1991,pp117-119)。他方日本の若者の場合も、対韓接触は基本的に韓国人のイメージの好転に寄与する。特に楽しい旅行経験の影響は大きい(中村 1986)。長期滞在になれば一層分析的な認識を伴ってくる(池田 1982,pp32-43,稲増・御堂岡 1991,pp12-13)。しかし、この好転の程度が他国に対する場合と比べると低いことが、否定できない(江淵 1985,10-11)。この韓国人に対するマイナスイメージの固定は、在日韓国・朝鮮の人たちに対して作り上げられたものであるとの指摘もある(田口純一 1990)。

3.日韓の新しい関係をもたらす要因
以上整理した日韓相互の若者の認識は、あえて歴史的比較の記述を省いてしまったが、70年代から80年代末までを取ってみても、ほぼ一貫して流れてきたと言ってよいものである。しかし、90年代の社会情勢は、これに大きな変化を促す可能性を孕んでいると考えられる。ではその変化をもたらす要因とは何であり、どのような変化をもたらすと考えられるのであろうか。次に変化の要因となると思われる動きを、現在の国際情勢のもとでの韓国社会と日本社会の変動の中に探ってみよう。
【国際情勢の変化】 国際情勢の変化は韓国により大きな変化をもたらしたと考えられるので、ここでは韓国に重心を置いて記述することにしよう。
まず全般的な変化をもたらしつつある要因として、冷戦構造の崩壊が上げられる。韓国は戦後長期にわたり、北にソ連・北朝鮮、西から南に中国の共産勢力、東に警戒すべき日本という諸国に囲まれ、反共・反日の方針を保ち続けてきた。そのために、アメリカとの特別な関係を維持してこざるを得なかった。そして、そのアメリカの軍事安全保障の一環として、日本とも、牽制しつつ協力するという構図を作り上げてきた。しかし、冷戦構造の崩壊はそこに大きな変化をもたらしたのだった。ロシア、中国は、韓国との関係改善を急速に進め、北朝鮮との関係については、これまでのような全面的支持からは方針転換を図っている。韓日米の安全保障関係は維持されるであろうが、当面、これまでのような緊張の持続状態からは抜け出している(2)。
その結果、何が生じたのか。韓国と北朝鮮は91年、国連に同時加盟し、両国の関係は、いまなおアメリカの意志が作用するものの、両当事者間の関係として対処できる状況ができ上がりつつある。北朝鮮の核兵器所有の有無をめぐる、アメリカならびに国連の動きにも一定の距離を置き、いたずらに北朝鮮を刺激することを制する発言を行なっている。北朝鮮との統一問題もこれまで以上に現実味を帯び、しかも東西ドイツ統一の負の側面を避けるべく慎重に検討できる状態にある。この点での問題は、むしろ、北朝鮮の国際的孤立化による危機感の高まりである(3)。
他方、日本との関係について、自衛隊のPKO派遣が韓国内の日本警戒論を強めさせたことが上げられる。このような警戒論は、しかし、韓国に限ったものではなく、かつて軍事的侵略を受けたアジアの諸国から発せられた。これが、これまで取り繕ってきた日本の戦後処理のまずさを修正させる効果をもつか、日本の経済力の前に再び押し込められるのか予断を許さないが、時を同じくして「従軍慰安婦」問題などが表面化し、日本政府も対応を余儀なくされ始めたことは大きな変化ではある(4)。
政治的・軍事的な変化と共に、世界経済の動きも韓国に大きな変化を及ぼしている。88年のソウルオリンピックを目指して急成長を遂げた韓国経済も、安い石油、安いウォン、安い人件費という条件、半製品輸入、輸入ノウハウによる製造によって海外市場を開拓してきた面が強く、国内の中央と地方間および階層間格差も大きいままであった(池 1990、滝沢 1992)。しかし、その後、世界的経済不況は韓国にも陰を落とし、オリンピック景気のもたらした高インフレ、高賃金、貿易収支の伸びによる高ウォン、強まる外国の圧力が、韓国経済を襲ってきた(池 1990、滝沢 1992)。加えて、ウルグアイラウンドによる市場開放も、足腰の弱いままであった国内経済にとって大きな影響を及ぼすであろうことは確かである。
では、日本との経済的関係はどう変化するのか。戦後韓国の経済成長と日本とが切り離し難い関係にあることは言うまでもない。80年代、韓国製品が日本の市場に出回り、韓国経済が早足に日本経済に追いつき追い越すかの勢いを見せた。しかし、日本から半製品を輸入しアメリカに製品輸出するという構図からの転換を図れなかったため、対日貿易収支の赤字は依然として他の国に対するそれを引き離している(安 1986、共同通信 1993)。とはいっても、日本企業との技術協力を推進しているばかりでなく、韓国は、中国、ロシア、東南アジアへと積極的に市場を拡大しつつあり、また、自動車を中心にアメリカ市場で不振の日本を追撃し、半導体産業を急速に成長させている(産経新聞 1994)。93年全体の経常収支は4年ぶりに黒字となり、次年度の経済成長率も5-6%になる見通しである(産経新聞 1994)。これまでの国内経済の足腰の弱さ、世界経済における日韓の構図を脱する可能性は次第に整いつつある。
【韓国社会の変動】 その韓国の国内にはどのような変化要因があるであろうか。まず経済の高度成長である。これは、国内の労働力移動をもたらし、ソウルを中心とする都市への人口集中、労働環境の格差拡大などの問題を引きずりながらではあっても、総体として国民生活を豊かにし、人々をさらなる豊かさと社会的安定を求める方向へと導いている。そしてそれは政治的民主化への大きな原動力の一つとなり、93年、韓国は久々の非文民政権の誕生を迎えた(5)。
この民主化の動きも変化の大きな要因となることは言うまでもない。金泳三政権はそれまでの軍事政権の残滓の排除、経済・政治・社会の各制度の自由化を、急激すぎると思われるほどのペースで断行している(6)。これに対し国民は、一部不満を持ちながらもこの新政権の可能性を静観する姿勢をとっている。
長い間の軍事政権のもとでの抑圧から解放されたことの意味は、きわめて大きいのである。冷戦構造の崩壊によって北の脅威が減少し、むしろ統一への希求が表に押し出された現在、豊かさと安定への願いは、戦後韓国の歴史を彩った軍事クーデターの再発をもはや許さないところまで、人々を導いたと言えよう(7)。人々の心は確かに変わりつつある。
さらに、88年のソウルオリンピック、続いて93年の万博開催のような国際化ブーム、観光ブームも、変化の大きな要因となりうるものである。多くの外国人観光客が訪れ、開催地であるソウルや大田ばかりでなく周辺観光地も国際化の波を受けている。今後も増えるであろうこれら観光客は、高度経済成長が呼び寄せた外国人労働者とともに、日本以上に単一民族国家である韓国に異種の文化を持ち込む可能性を持っている。
また、ソウルオリンピック以来の韓国の国際的スポーツ大会での活躍は、経済力の国際的評価の向上とともに韓国の人々の自負心を満足させ、次のステップへの意気を養うのに貢献している。
【日本社会の変動】 日本の国内情勢も、90年代に入って80年代とは大きく変わっている。まず経済の不振が上げられる。80年代に世界を席巻した日本経済の好調な伸びも円高の影響で次第に鈍り、外貨準備高は増え続けるものの、輸出関連業種から次第に不振に陥るようになっていった。バブル経済の余剰も、アメリカによって強硬に指摘されたような社会資本への投下を実現しないまま、バブルのつけの支払いに回されていった。ついに93年には、日本経済の成長を代表していた自動車産業の国際競争力が落ち、好調を続けてきた半導体にも陰りが見えてきた。経済は低迷し続けており、先進諸国が軒並み94年度中の景気回復を予測している中で、回復予測が最も遅れている(朝日新聞 1993a)。これは韓国と好対照である。
その一方で、大きな政治変動が起こった。永年与党であった自民党政治家の産業界との癒着、高級官僚の政界・財界への転出ルートの固定など、多くの重大な政治的争点が生まれてきた。そしてこれを糾すべき既成野党も、ほとんど実行性のある対応をできない状態であった。だが、政治改革を唱えたが意を果たせなかった宮沢内閣の崩壊による選挙で、自民党の分裂、新しい政党の多立を経て、非自民の細川連立内閣が誕生した。永年野党第一党であった社会党も、議席を大幅に減らし内部分裂の種を抱えながらも、この政権に加わった。戦後日本の政治の構図であった55年体制が崩壊したのだった。
政治的には、さらに日韓関係をめぐる動きがあった。すでに91年、在日韓国・朝鮮人、在日台湾人に対する新しい永住制度が導入され、93年には指紋押捺制度が廃止されるなど、日韓関係をめぐる政治的状況は変化していたが、細川首相は日本の戦争責任を明確にし、一層の対応を図ろうとしている。また、韓国には批判的態度をとり続けてきた社会党の委員長も、政権参加を前に韓国を訪問し、さらに関西地域の地方議会が、相次いで、在日韓国・朝鮮人に参政権を認めるよう政府に求める決議案を打ち出すなど、漸次ではあるが着実に変化が起こりつつある(8)。
しかし、国民の大きな期待を背負って登場した新政権であるが、この戦後処理の修正以外、事実上自民党政権の政策を継承するばかりか、新野党である当の自民党の抵抗にあい、新味のある施政を行なってはいない。景気回復に有効な策を打ち出せないうえに、ウルグアイラウンドの農産物輸入自由化、小選挙区制導入を中心とする政治改革法案への批判は多く、連立与党の足並みも乱れがちである。政治改革の引き金となった政財官の癒着構造は、確かにその後解明されはじめているが、政治改革法案の実効性を含めて、こうした構造が果たして改変され得るか否かは不明のままである。その間に、国民の関心は政治改革よりもむしろ景気回復に移っている(朝日新聞 1994)。とはいっても、人々の期待の表明は防衛的である。長引く不況は多くの企業に組織再編を余儀なくし、従業員の解雇、賃金カットを断行させている。これに対し人々の対応は、消費を控え景気回復を待つ態勢をとっている。不況であるからこそ「物の豊かさ」より「心の豊かさ」を重視する割合が、過去最高を示したとのデータもある(総理府 1993)。
90年代の日本は、80年代までの政治・経済の、今となっては老朽化した構造をどのように再構築するか、またその構造がもたらした様々な付けを、国の内外にどうやって清算すべきか模索している。国民は、それを新政権の命運と重ね合わせて見ているのである。

4.韓国と日本の若者の変化
以上のような韓国と日本のそれぞれの社会の変動は、当然ながら各々の社会の若者たちにも影響を及ぼす。では、若者たちの生活にはどのような変化が生じているのであろうか。
【韓国の若者にみられる変化】 80年代後半の経済成長と豊かさの実現は、若者たちの消費意欲を高め、レジャーをはじめとする生活の楽しみへと興味・関心を惹きつけた。ソウルの一角に現われた「オレンジ族」(AERA 1993)なる韓国版「新人類」は、当面、その突出した部分であるとしても、このような傾向は必ずしも一時的な特異現象に終わらないであろう。多少の浮沈はあるにしても韓国の経済成長は今後も続き、より多くの若者たちにその可能性を開くと考えられる。
次いで冷戦構造の終結と民主化の動きは、特に労働組合ならびに学生運動の歴史に新しい転換期をもたらしている。すでに87年の「民主化宣言」以後、これまで非合法とされてきた活動組織への統制が緩和されていたが、90年代に入り、ことに学生運動の永年のテーマであった反共・反日・反独裁のうちの少なくとも二つが消滅することになった(9)。韓国の学生運動にとって反共・反日は民族統一への願いと裏腹に位置づけられてきた。軍事政権は再々これを利用することで、反政府運動の矛先をかわしてきた。しかし、今や政府は反共スローガンを必要とせず、平和的南北統一を唱えている。その結果、学生運動も民族統一を平和的手段で訴え、反政府運動に代えて体制内改革・改善運動を民主的手続きをもって行なうようになりつつある。93年末、ウルグアイラウンドにおける農産物輸入自由化受け入れの決定が政治的争点となり、久々に農民・野党・学生の反政府の運動が生じたが、継続性を持つものではなかった。
豊かさを楽しみ始めた若者の生活観の変化が、学生運動のような政治的活動への参加を抑制することも考えられる。もともと韓国の学生運動は学生生活の中に組み込まれいるかの観があったが、80年代も後半になると共産主義思想に傾倒した一部学生の運動と見なされるようになっていた。若者の関心は政治から離れつつあったのである。実際93年には、80年代後半の学生運動を指導してきた学生組織が、街頭闘争から学園の改革へと方針転換をし、著名大学の自治会が様変わりしてきたと伝えられる(時事通信 1993)。今後この傾向が強まることは充分考えられる。
ところでこの傾向は、80年代半ばに現われた都市中間階層の性格に一部通じるものと言える。この階層は盧泰愚政権に民主化宣言を断行させた民主化運動の、重要な担い手とみなされている。教育水準の向上、生活の豊かさ、都市的生活様式の浸透、マスコミの発達などによって増加したこの階層は、政治的には労働者層より穏健・保守的ではあるが、民主的志向を備えた人々であった(金 1993,pp374-376)。この人々は民主化を民主的手続きで遂行することを望む。これ自体、国民の政治的成長の印しと言える。だがそれは、もう一歩踏み出すと政治的形式主義から政治的無関心へとつながる可能性を持つ。
この都市中間階層より若い世代である現在の若者に現われている変化は、この一歩を暗示するものかもしれないのである。抵抗運動の長い歴史と、分断された民族として常に祖国の行く末に関心を持たざるを得ない彼らは、この一歩を容易に踏み出しはしないであろう。だが、豊かな生活によって解き放たれる欲求が、それを促す力となることは否定できない。
【日本の若者にみられる変化】 日本の若者にとって、現在韓国の若者に現われはじめた傾向は、80年代に常態になっていたと言える。彼らは、豊かさがあたりまえの生活の中で成長してきた。しかもこの生活は、多分にかつての日本的と言われる人間関係を切り崩した上に成り立っていた。それは家族の紐帯であり、地域のつき合いである。家庭内の孤独、地域内の孤独は、高度成長期以来様々な形で指摘されていた(10)。
では、90年代の日本社会の変動は、彼らにどのような変化を引き起こしたであろうか。まず、日本社会が「国際社会」の一員であることが、改めて知らされたことを忘れてはならないであろう。彼らは、中東や東南アジアのオイルに支えられ、世界のブランドを身につけ、外国産の食品に囲まれ、欧米やアジア各国からの音楽や映画に接していたし、様々な外交・軍事条約に守られて生活していたにも関わらず、国際社会の一員であることが国際社会でどのような責任・義務と結び付いているかについては、必ずしも明確に自覚していなかった。これは若者に限った事ではなかった。80年代後半に外国人労働者が大きな社会問題として取り上げられはじめた頃から、国際社会の一員としての責任・義務の自覚の必要は高まっていたが、90年の湾岸戦争で日本の国際貢献が世論を二分した時にそれは決定的になった。その後、カンボジア問題が自衛隊派遣という政治的・軍事的国際貢献とNGO活動という社会的な国際貢献を、またウルグアイラウンドが、国際社会の経済的一員であることの意味を再認識させる機会を与えた。
さらにこれらとの関係で、特に国際社会の政治的一員であることを自覚をする過程で、日本の戦争責任と戦後処理の実態についても知る機会を得た。アジアの国々は自衛隊の海外派遣に対して敏感に拒否反応を示したものの、現実の苦境の中で日本の経済力に頼らざるを得ないために軍事力をも承認するとの判断を下していった。これと前後して、韓国をはじめとする国々の「従軍慰安婦」問題、その他の未決の戦後補償問題が表面化した。若者たちは、戦後日本が、モラルの問題までをも政治と経済の論理で押し込めてきたこと、それが今でも引き継がれていることを、これら一連の出来事を通じて知らされたのである。
もっとも、若者の反応はそれほど大きいものではなかった。多くの若者がこれらの情報にさらされ、新しい知識を得る機会を持ったにも関わらず、これらの問題に積極的に関わろうとする者は多くはなかった。若者のアジアの諸国との交流が重要であるとの意見を持つ若い人たちの数は、確かに多くなった。国際ボランティアとして活動しようとする若者も、以前よりも増えた。先の諸問題に積極的に関わろうとする者も現われた。だが、その数は絶対的に少ないままである(11)。
こうした傾向は国内の政治や社会問題についても同様である。社会的問題の解決に取り組もうとする若者は、環境、海外援助、性差別、平和などをめぐる「新しい社会運動」を中心に存在する。しかし、多くの若者は圧倒的に政治離れしており、公的問題にあえて取り組もうとはしない。彼らの目には「政治問題や社会問題は個人の力ではどうにもならない」ものと映っているのである(12)。90年代に入り、内外から、従来の社会的諸構造の再構築が求められているに関わらず、多くの若者には既存構造の持つ硬さが骨身に染み込んでいるかのようである。
それでも彼らは、音楽やファッションのような、彼らにとって新しい可能性を率直に求めることができる領域では、大胆に既成の枠を越える。高度成長期以来の「個人化」「私化」は現在も依然として進んでいるが、音楽やファッションのような文化は、政治問題や社会問題とは異なり、この私的領域の肥大化傾向と適うのであろう。
90年代の国内の大きな変化要因である経済的不況も、この点では若者に特に大きな影響を持っていない。不況の中でも、若者が80年代に獲得した基調は変化してはいない。これまでよりつつましくはあるが、文化領域に傾倒し、消費的遊びに熱中している。そしてそのために、一方では、就職状況の悪化に対し一層の会社への同化に励んでいる。転職率は下がり、家庭よりも仕事が大事と考える者の割合が増しているという(労務行政研究所 1993、朝日新聞 1993c)。
若者は個性的な生き方を求め、なかでも女性は社会進出を実現しようと努力を重ねている。それは間違いない。しかし多くの場合、その内容は「私的」であり、社会的紐帯を踏まえさらにそれを新しく築こうとするものではない。この多数の動きに対し、新しい運動を遂行する若者のエネルギーが、いかにして、どこまで、流れを変えることができるか。90年代は、その岐路にあるといえよう。

5.求められる実態調査
韓国と日本の若者は、少なくとも韓国の若者は、90年代に入って、徐々にではあるが着実に変化していると思われる。日韓の相互認識の研究も、これらの変化を組み込んでいくかなくてはならないであろう。その変化は実際どの程度進んでいるのか。それが日韓の相互認識にどのような影響を及ぼし得るか。これらを調査研究を通じて具体的に捉えていくことが求められる。
では、さらに一歩踏み込んで、その調査研究は、実際上どのような課題を抱えているのであろうか。最後にこの点を整理し、方向の設定を試みることにしよう。
【変化の位置づけ】 この作業を行なうには、まず、指摘してきた変化の位置づけを明確にしておかねばならない。変化が起こっていることを指摘し、さらに、その変化をできるかぎり日韓の若者をめぐる変化として記述したとしても、それが直接、日韓の相互認識研究に結び付けられる訳ではない。指摘してきた変化を、分析の対象としてどのように扱わねばならないのかが、明らかにされねばならない。以下、要点を列挙しよう。
1)まず前提としなくてはならないのは、ここで指摘したような変化の実態そのものが、検証されねばならないということである。この作業は、直接には、日韓の相互認識の研究としてではなく、それぞれの社会における若者研究として行なわれるものである。とはいえ、その様な若者研究の関心はあくまでもそれぞれの若者の動態にあり、特定の他社会との関係を扱うことではない。それゆえ日韓の相互認識研究は、その成果を踏まえながらも、独自に若者の変化を捉える作業を必要とする。
2)この前提の上で、考慮しなければならないのは、先にみた若者の生活と意識の変化は、それが実際に生じているとしても、とりあえず80年代後半から90年代に顕著になった「現象」として理解されねばならないということである。若者の生活と意識の変化には、もっと基本的と思われるものがあるのかもしれない。それは何であり、その変化とここで指摘した現象とはどのような関係を持つのかが、考慮されねばならない。
ここで基本的変化として、例えば、日本社会で顕著に現われているような人間関係の変化を上げることができる。このような変化が韓国の若者についても見られるのではないか。家族の紐帯、地域のつき合いは韓国社会にあってはきわめて重要な社会原理であり、また、この原理を支えてきた宗教、伝統的価値の基盤は、そう容易に変わるとは考えにくい(伊藤 1987、服部 1992)。韓国の人々にとって家庭内の孤独、地域内の孤独といった現象は縁がないように思われる。しかし、それが日本におけるように「私化」現象として起こるか否かは不明としても、高度成長のもたらす「個人化」傾向は、韓国社会にあっても生じ得るものである。
3)次に考慮しなくてはならないのは、問題としている変化を80年代から90年代の短期の要因との関係でのみ捉えるのは無理であるということである。、指摘してきた要因と若者にみられる変化とは、直接に結び付けられるとは限らない。さらに歴史的にさかのぼる長期の要因分析を必要とする。
例えば、日本の若者について指摘された「新人類」の性格にしても、そのすべてが70年代後半から80年代になって現われたわけではないし、その要因にしてもこの時期にのみ特有のものとは言い難いであろう。これにはさらに60年代の「団塊の世代」の性格、その要因と比較考量される必要がある。
この歴史的な要因分析には、また別の側面がある。それは、短期的に現われはじめた変化と見られるものを、伝統との関係に置いて捉えなおすことである。例えば、現在韓国の若者の社会運動に現われたといわれる改革路線への転換も、その際の意識も、日本植民地時代や軍事政権下での抵抗の軟化・同化現象とは明らかに異なるとしても、文人の思慮を重んじる伝統とまったく無縁なのであろうか。また、生活を楽しむという姿勢にも同様なことが言い得るのではないだろうか。このような視点も必要である。
4)さらに、当然ながら、ここで指摘してきたような社会の変化が、やはりここで限定的に取り上げた若者の変化とは別の、あるいはそれとは反するような変化を引き起こすことを想定しておかねばならないということである。これは歴史の不確定として不可避のことである。
5)そして最後に、見かけの「現象」は、これを理解しようとする解釈の枠組みによって異なって現われるということを、あえて指摘しておこう。
つまり、本稿とは異なる側面に焦点を合わせた分析が、異なる現象を記述することはもちろん、同じ現象を対象としながら異なる側面を記述することも、さらに、同じ現象を扱っているはずが、それを異なる現象として記述することもありうる。
日韓の相互認識の問題のような、感情の複合性を含めて歴史的に入り組んだテーマの場合、こうした多様性は大いに起こり得る。この多様性は保証されねばならない。そのうえで歴史の評価を競うことになろう。
【調査研究の流れへの「変化」の位置づけ】 さて、以上の分析対象としての「変化」の一般的位置づけを念頭におきながら、最後に、この「変化」を日韓の若者の相互認識の解明に位置づけるために何が求められるか、考えてみよう。それには、これまでの調査研究の流れを踏まえながら「変化」を取り出す工夫が必要である。先の「調査研究の流れ」の整理に対応させて考えるのがよいであろう。
日韓の若者の相互認識の研究にとって、先に内容について整理した、「相互の、関心の高低、好き嫌い、知識の有無の関係」「過去の認識と未来への期待」「相互交流の有無・その時間的長短の影響」とこれら相互の関係を捉えるのが中心テーマである。これは今後とも引き継がれていくであろう。問題は、これをどのような枠組みに置いて追究するかである。それには、いくつかのレベルの設定とその関係づけが要求されよう。
まずは、両国のいわゆる国際的な場での関係、すなわち両国間の経済関係、政治的・軍事的緊張緩和、過去についての謝罪と補償の動き、などのレベルである。これは当のテーマにとって、これまで以上に重要なレベルになると思われる。今や日韓関係は単に二国間の関係ではないし、今後その傾向はさらに強まるであろう。ただしこのレベルでも、経済と政治、経済とモラル、政治とモラルといった要素間の取り引きが起こり得ること、それが明らかになった時相互認識に大きな影響を持ち得ることに、注意しなくてはならない。
テーマとの関係でいえば、現在の変化を踏まえて協調関係は一層進むと考えられが、その過程での摩擦は避けられないであろうから、一概に相互認識の好転を予想することはできない。過程は複雑であろう。
この複雑さを考えるには、次にそれぞれの国内事情のレベルが必要である。このレベルには生活の向上、人間関係の変化、伝統と近代化による価値変動、対日本・対韓国評価の情報・意味空間などが想定できる。当のテーマにとってこのレベルは不可欠であったし、これからもそれは変わらない。またこのレベルには、各々の社会での変化だけでなく、相手社会についての情報・意味空間が含まれることを忘れてはならない。一方の経済発展や軍事的拡大が、他方に羨望や脅威の的になることが、当のテーマにはきわめて重要である。
問題は、実際にはこのレベルの位置づけでさえ調査研究においては困難を伴う、ということである。相互認識のような意見・意識を対象とする場合、このレベルは間接的に背景知として引き合いに出されるにとどまることが多いのである。このいわば社会的レベルの分析を組み込むことが、もっと試みられなくてはならない。それには、それぞれの社会の事情に詳しい研究者の共同研究が求められる。
このレベルでの現在の動きは、当面、日韓の相互認識の好転に寄与しているように見えている。ただし、韓国が今後補償要求を強化・増大させると日本で「嫌韓論」が増えるという一部の議論はともかく、謝罪と補償が韓国の人々の納得のいくようなものになるか否かは、他の要素の 変化のいかんに関わらず、やはり大きな影響を持つであろう。
ところで、ここで「当面は好転」と言わざるを得ないのは、人々の意見・意識はある面で変わりやすいし、別の面では変わりにくいからである。そしてそれゆえ、ここにもう一つの分析レベルとして個人レベルが必要となる。
個人の相手社会に対する関心・興味・感情は、相互認識研究にとって直接に対象となるレベルである。この個人のレベルには、さらに基本的な価値観、例えば親と私、友と私にはじまり、公と私、国家と世界、金銭・物資と精神などの二項のいずれを優先させるかの価値判断・態度が含まれる。これは個人のレベルにあるが、社会の価値構造に密接な関係にある。そして一般に、関心や興味や感情は、情報・意味空間の中で比較的変わりやすいが、基本的な価値観は逆に比較的変わりにくいと考えられる。
今日、今まで以上に、この基本的価値観の変化を想定しなくてはならなくなっていると思われる。これは、今後の調査研究にとって大切な点である。
これまで、関心・興味・感情と学校教育やマスコミ情報、家庭教育、留学・滞在経験などとの関係が問われてきた。教科書や新聞の内容分析もこの文脈に位置づけてられてきた。多くの研究がこのような方針の上に積み重ねられてきた。しかし、従来の研究は、基本的価値観、そしてその変化と相手社会に対する関心・興味・感情との関係を、充分に捉えてきたとは言い難い。例えば「滞在経験が豊富であるとその社会への好意度が増す」という類の指摘は、その根底に基本的価値観の変化を想定しているものの、その価値観が一体どのようなものか、どのように変化したのかの追究を省いている。それゆえ、「滞在経験が増すと日本に対する警戒心が強まる」という指摘との矛盾を、類推によってしか説明できないのである。
加えて現在では、相互認識が時代や世代によって異なることを、真剣に考えなければならなくなっている。例えば「日韓の若者は親しく交流すべきである」という判断は、30年前の若者と現在の若者とでは異なる価値判断で成り立つ可能性がある。「過去の謝罪と補償」を踏まえているのか否か、公共の利益のためか私的な利益のためか、その場かぎりの享楽か新しい関係への期待か。いつの時代にも判断規準の多様性はある。だが、その比率は時代と共に変わりうる。社会の価値構造の変化が起こるのである。
現実に日韓の若者にみられる価値構造の変化には、重なる方向が見られる。それは、個人化の傾向である。しかし、基本的な人間関係の原理は互いに異なっている。この構図が日韓の相互認識の変化とどう結び付くか。それが追究されねばならない。

6.結びにかえて
日韓の相互認識研究の目的は、単に相互認識の実態を捉えることではなく、過去の不幸な事実とその後の不幸な関係を互いに正確に認識し、正すべきを正して、将来に向けて無用の偏見と誤解を無くしていくことを目的とする、と私は考えている。日本は、歴史上の汚点をきれいさっぱり拭い去ることなどできないし、韓国の人々に水に流して忘れて欲しいなどと言ってはならない。これは基本的なモラルである、とも考えている。しかし、このモラルを持って上の目的を目指そうとしても、それがいかに達せられるかについては、わからないことが多すぎる。素朴なモラルは必要ではあるが、それで充分ではない。では、何が必要か。やはり、相互認識の実態をより正確に捉えることに立ち返る他ないであろう。
しかし、そのためには、人々の意見や意識の「現象」を実態として追いかけるだけでは不充分である。その背景とのつながりを時代の中で捉えなくてはならない。だが、それはどのように成しうるか。これが難問である。
日韓の相互関係はあまりに複雑に入り組んでしまっている。国家と国民が乖離してしまっている内に国家間で政治や経済とモラルのすり替えが行なわれ、国民が取り残される場面もあった。国民一人一人のレベルでも、同じようなすり替えが行なわれてきたことも否定できまい。過去の事実関係についても、視点を変えることで、まったく異なる理解が生み出されてきた。これは日本に限ったことではなかろう。そして、日韓の相互関係のなかに、これらが綾のように入り組んで堆積してきた。日韓の相互認識を考える者は、必ずこの事態に直面し、この仕組みを一つ一つ解きほぐさざるを得ないと覚悟してきたであろう。これは避けて通れない。
けれども、周知のように、ここにも落とし穴がある。個々の領域やテーマに入り込み綾の機微を把握すると共に、他との繋がりを失うことになりかねない。これは多くの者が危惧するところで、それゆえ、これを防ぐために学際的協力が求められてきたのである。
ではその結果、溝は埋められてきたか。どうもそうは思えない。何か欠けてきたように思われる。それは領域やテーマ間の繋がりの部分へのアプローチである。ここではそれを分析レベルの設定とその関係として指摘した。ことに、本来追究されてしかるべきである、意見・意識の位置する個人レベルと社会レベルを繋ぐ社会の価値構造の分析意義を強調した。本稿は、90年代の変化を捉えることの必要性を説くことを中心課題としたが、そのためにも価値構造の変化を捉えることは不可欠である。そして、その価値構造の変化をさらに他のレベルとの関係に置いて分析することが、ますます重要になっていると思われる。


(1) 以下の整理では年齢に応じた分析をきちんと位置づけることができなかった。大学生・高校生・小中学生・勤労青少年による認識の違いは重要である。この点を分析しようとする例として、次のものを上げておく。権藤 (1982)、望田・権藤 (1983) 日韓相互理解研究会 (1992)。また、その延長上でナショナルアイデンティティに関して調査したものに、権藤 (1980)がある。
(2) アメリカ軍の核撤去・軍撤収やチームスピリットの中断など、緩和に向けた方向が考慮されるに到っている。
(3) 最近は、核査察問題をめぐる駆け引きもあり、北朝鮮が南北会談に躊躇している。
(4) 「従軍慰安婦」への補償の検討を曲がりなりにも開始する方針を打ち出したのは、自民党宮沢政権であったことは、時代の流れを感じさせる。
(5) 金 (1993,pp64-65)は、盧泰愚政権は全斗煥政権を実質的に引き継いだこと、政権の国民代表性が脆弱であったことをもって、過渡的な疑似民主主義体制と規定している。
(6) 全元大統領への「クーデター事件 」「平和ダム」疑惑、盧前大統領への「兵器導入疑惑」をはじめとする、政治家・官僚への不正追求、「金融実名制」「国有・国営企業の再編計画」などの経済改革と、枚挙に暇がないほどである。
(7) 金 (1993,pp138-140)は、すでに80年代後半に、軍事クーデターの再発可能性はないと予測している。
(8) 昨年末までに大阪、京都、滋賀、和歌山、福岡、岐阜の6府県内、計15府市町村の地方議会が選挙権実現に向けて議会決議をしたが(毎日新聞 1994)、日韓外務省のアジア局長級協議で日本側は「外国人の地方参政権は困難」との見解を示した(毎日新聞 1993)。まだ実現には遠いものの、こうした動きは今後は拡大するであろう。
(9) 労働組合の歴史についての簡略な整理については、慎斗範(1993)を参照のこと。
(10) ごく最近のこれに関するデータとして、家族内の孤独化については朝日新聞 (1993b)、会社の人間関係離れについては朝日新聞社(1994)に紹介されている。
(11) 91年、湾岸戦争以来の「国際貢献論」に触発されてか、日本人の「社会参加」意欲は高まった(総理府 1992)。しかし、その際にも若者の参加意志は、50%を前後していた。
その後、ボランティア組織も増え、その活動を支えるサービスも始まっている。国際交流に関するボランティアへの関心が高いという。ボランティアに関する情報サービスを行う「ボランティア・アクティビティ・ホットライン」の、昨年8月から11月までの相談の集計では、総数461件、内、女性が8割以上、年齢別では20歳代が50%、次いで30歳代が17%、10歳代が13%で、希望分野は「国際交流」41%、「福祉」32%、「環境問題」8%だという(94.01.03 東京読売朝刊)。
(12) 総務庁青少年対策本部『世界青年意識調査』によれば、日本の若者は「自国のために役立つなら、自分の利益を犠牲にしてよいか」との問いには、「はい」は11%(韓国では44.7%)。さらに、社会への満足度は、「不満」「やや不満」が合わせて53.4%。不満解消のため「選挙権を行使する以上の積極的な行動はとらない」者が50.2%。その理由として「個人の力では及ばない」が67.5%にものぼっている。また、悩みや心配事では、日本は1位が「お金」で2位が「仕事」。「社会や政治」と答えたのは、わずか5.5%であった。


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朝日新聞 (1993c) 05/11 朝刊 大阪 新入社員に異変 家庭より仕事優先 京銀が府内 企業で調査
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時事通信 (1993) 04/04 速報 15:26 学園闘争重視に路線転換
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