「旧東ドイツの若者の社会意識、政治意識(転機の70年代):扶助国家の形成、国家不信、私化の浸透」

『国際関係紀要』第3巻第1号 亜細亜大学国際関係学部,1993,所収.


<紹介>
第二次大戦後分断された東ドイツの社会変動を追い、その中で若者たちはどのように育成されてきたのか、また統一後の若者に見られる特徴はいかに培われてきたかを分析。
東ドイツは社会主義国家として「扶助国家」づくりに努めた。その中でレジャーや消費文化の実現も図った。しかし、やがてこの方向は経済的、政治的な危機を迎え崩壊する。この歴史の中、若者は学校教育、地域教育を通して体制化されるが、それも消費文化の欲求開発、政治的自由への希求の動きによって空洞化する。家庭においても家族の縮小化、父子関係の希薄化が生じた。若者の人間関係の基盤が大きく変化した。そしてそこに、西側と同様、「私化」現象が生じていた。
東ドイツ地域では、権威に抗して自由や「公共性」を獲得する歴史を欠いており、壁の崩壊前後に見られた民主化への動きも限られたものであった。外国人労働者排斥やネオ・ナチズムを許す土壌は、皮肉にも東ドイツの国家政策のもとで作り出されたのである。


1.はじめに
東西ドイツの壁の開放から早四年。しかし92年度末の経済成長率は1.5%と、統合のつけは統一ドイツに依然として重くのしかかっている。とくに旧東ドイツ地域での経済は低迷し、94年1月までに賃金を旧西ドイツ地域と同じ水準にするとの労使による賃金協定も、使用者側から一方的に破棄される州も出てきた。そのような状況のもと、ネオ・ナチズムの動きが活発化している。これは、対外的には、外国人労働者、難民をはじめとする外国人に対する排外主義を、国内においては、戦後45年間の東ドイツの社会主義のみならず、旧西ドイツが築き上げた民主主義の原理への挑戦を意味するが、とくにそれが旧東ドイツの若者に顕著に現れているのは注目すべきことである。
90年代に入ると、ネオ・ナチズム、右翼過激主義の分析も数多く試みられている(Farin,K.& S-P.Eberhard,1992,Heitmeyer,W.,1992,Heitmeyer,W.u.a.,1992,Armin,P-T.,1993,Bielicki,J.S.,1993,Schmidt,M.,1993,)。なぜ若者たちがこうした行動に走るのか。興味深いテーマである。だがそれは旧東ドイツ社会の若者の、重要ではあっても問題の一つの現れで、彼らの社会意識を代表するものとはいい難い。ネオ・ナチズム、右翼過激主義の分析のためにも、戦後45年間の旧東ドイツの社会主義国家の変遷の中で若者はどのような政治社会的状況に置かれ、どのような社会意識、政治意識を持つようになったかを、さらに広い視点から見ておかなくてはならないのである。
現在の若者は、これを10代から20代の者と理解するとすれば、東ドイツが扶助国家(社会保障の国)として成長し、かつ危機に陥っていく60年代半ば以降生まれの世代である。この時期の社会の変化は目まぐるしく、学校教育、家庭環境、友人、同年代集団、情報環境といった若者たちの生活環境も大きく変わっていった。彼らの社会意識、政治意識を捉えるためには、この時期を中心に、これらの要素について分析を試みなければならないだろう。ただし、その十分な分析には大きな障害がある。東ドイツ地区の若者研究がこれまで公にされてこなかったために、必要なデータが手に入りにくいことである。それでも90年代に入り、東西ドイツの若者研究者の交流が活発になって以降、旧東ドイツの若者研究について紹介がはじめられ、若者の姿をとらえるのに必要最小限のデータは得られるようになってきた。
ここでは多くの制限があることを前提したうえで、60年代半ば以降ことに70年代から、若者たちの間にいかなる社会意識、政治意識が生まれてきたのか、第二次大戦後の45年間を踏まえて分析を試みることにしよう。


2.扶助国家の建設と破綻
第二次大戦に敗れた後の社会主義国家東ドイツの設立が、多くの東ドイツ地域の住民にとって望んだものではなかったことは、良く知られている。敗戦直後、大方はソ連による占領が一時的なもので、いずれ全ドイツが一つの国として復興するものと考えていた。それは西ドイツ地域の住民にとっても同様だった(1)。しかし、東西冷戦構造の成立は、多くの国民のそのような思いをよそに、49年、ドイツの分断を決定的なものとした。そしてこれを境に、東ドイツ地域の政策は、社会主義体制造りへと邁進することになるのである。だがその歩みは、やがて東西ドイツの統一にいたる紆余曲折に富んだものだった。
その変化とはいかなるものだったのか、まず、戦後東ドイツの政治、経済的社会変化を簡単に整理し、その中で問題の70年前後の時期の特徴を押さえておこう(2)。
【民主化のソビエト化への転換】 45年から49年までは、四大国の連合軍の占領政策からソ連軍政府の独自の占領政策、ソ連化の性格が明確化する時期である。経済面ではソ連による食糧の徴収、工場解体と徴収が行なわれる一方で、ドイツ企業の解体、ソビエト株式会社への再編成や農地改革が遂行された。政治面では、当初、民主化路線によりキリスト教民主同盟、自由民主党、社会民主党、共産党などが創立されたが、その後、共産党と社会民主党の合同によって結成された社会主義統一党(SED)が一党支配の構造を作り上げた。そして、やがて社会主義統一党内部でウルプリヒトらのソ連よりの共産党メンバーが台頭するにつれて、自由選挙の制度さえ失われていった。反ファシズム、非ナチ化という方針も、社会主義化に置き換えられていった。その結果、非ナチ化は早期に終わりを迎えたのだった(ベンダー,P.,1990.pp.48-53)。
【社会主義国家建設】 49年、ドイツは分断された。これから63年まで、東ドイツは社会主義国家の建設期を迎える。経済面では工業、農業の社会化がなされ、計画経済体制が施行された。しかし、60年には農業の集団化が完成したものの、生産は必ずしも計画通りには上がらなかった。工業生産の成長も50年代半ばから停滞した。しかも、社会主義化はあまりに急激で、ことに農民の集団化やきつい労働ノルマへの反発は大きく、国外への逃亡が相次いだ。61年のベルリンの壁の構築は、この国外逃亡を防ぐ窮余の策だった。そして、大量の若手、男子労働者の国外逃亡による労働力不足を補うため、生産設備の向上、女性労働力の開発と福祉政策の施行が積極的に進められた(Oertel,I.& H.Ziesemer,1992,S.265-292)。
こうした社会主義化の強行を支えたのは政治的な権力の行使だった。50年の第二回選挙でも、キリスト教民主同盟、自由民主党は、まだ40%の支持を得ていたが、政治の中枢はSEDが握り、他の政党、団体はこれに従属するという構造が形成されていった(グロ−セル,A.pp.395-396)。これは、ソ連化を進めるために必要な手続きだった。だがそれは、東ドイツがソ連と距離をおいて独自の国家建設を行なう体制が整えられていくことをも意味していた。52年には、多くの国民の国外逃亡を防止するため、東西ベルリンの国境を封鎖した。さらに53年、賃金、ノルマへの不満に発する東ベルリン暴動に際しては、ソ連軍の武力介入を認めた。ソ連は、これに際してSED政権による急激な社会主義化の見直しを指示したが、後に国家評議会議長に就くウルプリヒトは、これに対してソ連の「新路線」に従うと見せながら、党、政府の人事刷新を行ない、実質的にスターリン主義を踏襲する「鉄の統制」を施行していった(グロ−セル,A.,1981,pp.400-402)。そして53年のソ連の軍政から民政への切り替え以降は、ワルシャワ条約機構への参加、人民軍の設置など自前の武力の組織、機構を確立し、50年代半ばのソ連の雪解け外交の時期には国内 への波及を恐れ学生、知識人の弾圧を行なうなど、ソ連とは距離を置いた独自路線を歩むまでになっていた。61年のベルリンの壁構築は、国民の逃亡予防策であると同時に、東ドイツがソ連と緊密な関係を維持しながら、独自の路線を踏み出したことのシンボルでもあった。そして63年には、このような方針の選択の上に、資本主義から社会主義への移行の完成宣言を行なうに至った。
【扶助国家の完成】 次いで、本稿で注目する60年代半ば以降の時期がくる。東ドイツは、まず70年代半ばまで、63年に宣言した独自路線を押し進めながら経済的にも政治的にも名実共に社会主義国家を造り上げていった。折しも西ドイツはこの時期すでに奇跡の成長を遂げ、安定成長、福祉国家政策への転換を打出し、実際、その成果を着々と挙げていった(NHK取材班,1988)。東ドイツは国民の心を国内に止めておくためには、この西ドイツに劣らない豊かさと生活の安定を実現しなくてはならなかった。果たして東ドイツはこの時期、曲りなりにもこの要求を満たしていった。
60年代前半は、採算を無視して価格体系を維持するなどの無理な政策のため経済は伸び悩んだが、半ばからは生産性向上、コスト引き下げ、製品の質の向上などの成果が現れ、国内総生産は世界でも十指に入る程になった。生活必需品は、依然として品質は劣るものの安価で普及し、家賃も40年代の額に据え置かれた。さらに完全週休2日制の施行など、労働時間の短縮化が行なわれた。国民の社会統合を支えるために、生活の保障が実現されていったのである(Oertel,I.& H.Ziesemer,1992,S.265-292)。60年代後半には、国民の国外逃亡のみでなく生産の向上、拡大による労働力不足を補うために、外国人労働者も受け入れるようになっていった。
70年代前半、ウルプリヒトに代わってSED書記長、次いで国家評議会議長の任についたホーネッカーは、この成長を基盤として、消費財、サービスを低価格に固定し、福祉社会主義の実現を図った。この生活水準の向上政策は「消費社会主義」への道を歩むものと言われた(Stiller,G.,1989,S.151)。
東ドイツの独自路線は、政治的場面で一層明確に現れた。63年の社会主義への移行の完成以後、東ドイツはソ連を手はじめに次々と多くの東欧諸国と友好条約を結んでいった。そして68年には、新憲法をもって一つの社会主義国家であることを明言し、二つのドイツ国家の存在をアピールするとともに、西ドイツとの間に条約締結を提案した。この動きは、西ドイツの東方政策への反応であるばかりでなく、世界的なクロス外交の流れに沿ったものだった。そして73年、東西両ドイツの国連同時加盟によって、東ドイツは国際的に一つの国家として承認を得るに至ったのである。
また、このような開かれた国家を演出し国民にもそれを享受させるため、ホーネッカーは「文化の自由化政策」を施行し、西側の前衛芸術を許可したり、自国の文化、芸術の海外進出に努めた。この政策は先の「消費社会主義」政策と共に、後に見るように、70年代から統一後まで、東ドイツ地域の若者に意味深い影響を与えることになるのだった。
【扶助国家の危機と統制再強化】 ところで、74年以後から80年代半ばの東ドイツは、ホーネッカーの思惑とは別に、反体制運動の高揚、大量の国民の国外退去をへて89年のベルリンの壁の開放へと向かう、経済的にも政治的にも困難な時代を迎える。70年代半ばの世界的な資源、エネルギー価格の高騰の影響で輸出入バランスが悪化したうえに、労働生産性が低下しため、低価格維持の方針と現実との食い違いが大きくなったのだ。とくに消費財生産の伸びは低く、国家補助が嵩んだ。そこで80年代に入ると省エネ、省資源、産業ロボット導入、先端産業への労働力集中などの経済戦略をとり経済の改善に努めたが、西ドイツとの経済力の格差は広がるばかりだった(Drange,F.Herzog,R.& K.Kockel,S.163-174,GeiBler,R.,1992,S.41-42)。
一方政治的場面では、74年以後、社会主義の一層の拡大を目指した。74年に修正された憲法では、ソ連との関係を一段と重視しつつも、一個の独立した国家として、社会主義諸国の友好と協力関係を謳い、76年に改正された市民法では、個人の利益と社会の要請は一致するという理念を明示した。さらに80年以後、西欧諸国や第三世界諸国を訪問するなど独自の外交を開始した。81年には、ドイツの再統一に関して西ドイツの社会主義化を条件とし、84年にも資本主義と社会主義の統一は有り得ないとの発言を繰り返した(Fuhr,E.S.,218,S.234)。
しかしこの時期、国民の同意は実質的に失われていった。国内政治は国民の体制離れの抑止におわれていた。72年の東西ベルリン交通条約以来、西ベルリン訪問者の数が急増していたが、70年代半ばから知識人、文化人を中心に反体制運動や環境保護運動などが起り、著名な芸術家、科学者、作家などが活動を制限されたり国外追放といった処置を受けるに及んで、体制に距離をとる者の数は増えた(仲井,1982b,10.1)。そして80年代初頭、公然とした体制批判やデモが行なわれるようになった。
【社会主義国家東ドイツの崩壊】 政府は、経済面ではすでに81年に省エネ、省資源を旨とする方針転換を図る一方、福祉政策の拡大や住宅建設計画の準備などの社会政策を展開し、国民の統合を図ろうとした。しかし、生活水準は西ドイツは言うまでもなく、その他の資本主義諸国に比しても停滞し、消費機会も乏しくなった。83年以来、経済状態の改善も伝えられたが、国民の離反は留まることは無かった。企業や公的業務領域のサービス部門は、扶助国家のスローガンとは逆に崩壊し、サービスの悪さが目立つようになった。82年には国外旅行規定の緩和案を打出していたにもかかわらず、84年にはアメリカ大使館に国外脱出を希望する市民が逃げ込む事件が起こり、東ベルリンの西ドイツ在外公使館にも逃亡志望の市民が殺到したため、これを閉鎖せざるを得なくなった。これに対し政府は、さらに西ドイツへの旅行規定を緩和し、社会主義圏の国外旅行もそれまでになく大量に許可した。だが、国民の体制離れを引き留めるまでには至らなかった。
これに、85年からのソ連の国内改革が大きな影響を及ぼした。87年には東ドイツ政府首脳はソ連の改革政治に距離をとることを表明し、88年にはソ連の雑誌『スプートニク』やいくつかのソ連映画を禁止するほどに、東ドイツとソ連の懸隔は顕著になった。89年、東欧諸国を巻き込んで大量の国外逃亡者が発生し、東ドイツ国家創立40周年記念に参加したゴルバチョフが指導者をあからさまに批判するに至って、東ドイツの社会主義は周辺諸国の支えさえ失ったのである。


3.社会主義的人格の育成システム (1) 教育制度
以上のような東ドイツの国家建設とその変遷の中で、若者たちの生活環境も多くの変化にさらされていく。当然ながら、国家政策として変化は計画的に推進された。学校教育、家庭環境、友人、同年代集団、情報環境など、若者の生活環境を考える上で考慮すべき諸領域で、様々な政策が施行された。
国家によるこの青少年対策を網羅して取り上げることは、ここで為し得ることではない。ここではあえて公的領域と私的領域を分けて考え、公的領域に関わる中で重要なものとして教育制度と、日常生活を指導するための諸団体の組織化に、私的領域に関わるものとして家族、家庭に的を絞って取り上げることにしたい。教育制度は、職業を中心として若者たちの人生設計を決定する、文字どおり公的な制度である。日常生活を指導するための諸団体は、若者の日常の私的な関心にも関わりつつ、これを公的に指導するものと見做すことができる。家族、家庭については、基本的な人間関係を含むものと捉えた上で、一方では、それが社会の公的な制度の変化の中にあってもなお、私的領域として次代の若者を育んでいく場として、他方では、さらに、若者を社会へと送り出す、公的な領域との媒介の機能を果たすものとして考えることができる
以下、順に節を追って分析する。まずは教育制度である。
【教育の民主化と統一化】 教育制度の再編成は、45年から49年まで、反ファシズム、民主化政策の一環として手掛けられた。それは、教育の機会均等、民主教育を内容とし、かつてのワイマール期の理想に通じるものでもあった。ドイツの教育体系は、帝政ドイツ期に部分的改革はあったものの、現実には、知識人、エリート育成、専門職、マイスター育成、労働者育成という三つの柱を持ち、大学教育は知識人、エリート層にほとんど独占され、労働者階層は初級、中級教育で甘んじなくてはならなかった。この体系を根本的に再編するのが戦後の改革の目的となった。46年の「ドイツの学校の民主化法」による改革の第一は、労働者階層の子弟への高等教育の普及で、旧来の知識人階層の子弟の大学進学を制限する一方、農民、労働者の子弟の大学進学に優遇措置をとることが行なわれた。第二は、全国共通の教育制度の施行で、子供たちは8年間、全国共通のカリキュラムの授業を受けることになった。第三は、職業教育と学問教育の結合で、子供たちは8年間の共通教育の中で両面について学習し、その後、9年目からの2年間、職業教育コースと大学進学コースに分かれる準備期間を持つことになった(Fischer,A.,1992,S.31-35)。
この改革により、学校、学級の整備、施設の拡充、農民、労働者の子弟の大学進学率の上昇などが実現し、教育の機会均等、民主教育化という目標は、ある程度達成された。しかしそれは、同時に中央統制的国家権力の影響が浸透することをも意味していた。教育の地方分権は失われ、学校管理や学校長の選考が中央で行なわれるようになったのである。
【社会主義化、中央集権化の完成】 この中央集権化の動きは、次いで49年から65年、社会主義的な学校制度の形成期に、より明確になった。51年のマルクス-レーニン主義に特徴づけられた教育計画の実施により、公式に教育の社会主義化が推進された。51から52年、教師、幼稚園指導員らは、ソビエト教育学の学習を義務付けられ、子供たちには5年生からのロシア語学習が義務付けられた。学校は、ソ連の教授法を取り入れて「青少年に、全人格的に発達し、社会主義の創造と働く者の成果を守り抜く能力と心構えを育成する」ことになったのである(Fischer,A.,1992,S.37)。これは、反ファシズム、民主化改革が社会主義化に置き換えられていくことを意味していた。
この置換は着実に進められた。59年、学校制度は、「ドイツ民主共和国の学校制度の社会主義的発達に関する法」により、大きく整備された。10年制の総合技術上級学校が義務教育になり、加えて大学への特別な準備教育として、拡大上級学校が設置された。さらに、61年のベルリンの壁の構築、62年の徴兵制施行などの動きの中で、学校教育は「青少年の社会主義的国家意識の発達」、すなわち若者達の一層強固な社会統合を目指すものとなった(Fischer,A.,1992,S.43)。そして65年、「ドイツ民主共和国の統一的社会主義的教育制度に関する法」によって、0-3歳の保育園、4-6歳の幼稚園、それに引き続く10年制の総合技術上級学校と11-12年生向けの拡大上級学校、さらに大学、成人教育という、包括的教育制度が完成することになる。社会主義のイデオロギーによって統制された体系を持ち、青少年への政治、経済的要求を強化した教育、ソ連の教育に志向した教育が、ここに完成したのである。
【高等教育の浸透と変質】 そして、本稿で問題とする60年代半ばから80年代まで、教育政策は基本的にこの制度のうえに行なわれることになった。だがこの期間中にも大きな変化があった。
その一つは、高等教育の浸透の結果、高等教育への進学が一部見直されたことである。これは制度の大幅な変更を経ないものの、極めて重要な実質的な変質をもたらした。大学進学率は、51年以来農民、労働者の子弟を中心に増加し、60年代には西ドイツよりも学生数が多くなり、72年には51年の5倍強の16万人を数えていた。これに対し政府は60年代に進学抑制の方針を打出し、70年代はじめには進学率を規制した(GeiBler,R.,S.215-218)。選考基準は成績だけでなく階層、社会政治的活動などが考慮されており、この時期にはとくに農民、労働者の子弟からなる社会主義的知識人の価値が賞揚されたが、実質的には後に見るように農民、労働者の子弟はかえって締め出されていったのである。
変化の二つ目は、若者の経済過程への組み込みと社会主義のイデオロギー教育の一層の強化である。70年代半ばからの各種の反体制運動の高揚、78年の国防教育導入問題など、知識人ならびに教育をめぐって問題が多発したこの時期、大学入学選考基準をはじめとして、教育制度には様々な批判が加えられた。だがそれらは政府によって無視されるかイデオロギー的に争われ処理されたにすぎず、制度上の大きな変化には至らなかったのである(Fischer,A.,1992,S.44-45)。
【教育制度の固定化】 そして81年から89年、政府は経済の低迷に直面して、むしろ労働生産性向上のためにいかなる改革が必要かを模索しはじめた。そして81年のSED党大会では、現状制度の効果的活用と新しい形式の開発が謳われた(Fischer,A.,1992,S.45-46.)。しかしその際の議論は、ことに大学受験資格のための2年間の教育制度をどうするかにむけられ、教育制度のドラスティックな変化をもたらすものではなかった。東ドイツの民族教育は東ドイツの社会システムのとくに優れて進歩的な部分であるとの「公式」見解が広まっており、当局は学校政策の中央指導の徹底という方針を相変わらず堅持した。89年6月の教育会議でも、この志向は変わらなかった(Fischer,A.,1992,S.47)。変化を模索したのは、ようやく壁開放後の89年11月、SEDの「行動計画」によってだった。


4.社会主義的人格の育成システム (2) FDJと各種の団体
このような教育政策はSEDの青少年対策の重要な一環だったが、SEDは、これと併せて自由ドイツ青年同盟(FDJ)を中心とする各種の団体の形成、指導を通じて、青少年の日常生活のより広い領域での社会主義化を押し進めていった。(Dennhardt,R.,1991,S.27-34)。FDJは14歳以上25歳以下が参加資格を持つ団体であり、これより年少の子供には、6歳から4年間の幼年ピオニール、次いでテールマン・ピオニールという下部組織が設けられた。その他、各種の団体も形成された。だが、ここではそれぞれの団体の詳細は問題ではない。それらが若者に与えた影響が重要である。また、何といってもFDJは各種団体の中心だった。それゆえ、これに焦点を当てて見ていくことにする。
【未来を築く若者の育成】 FDJは、SEDの「若者の国」「子供を持つものには未来がある」とのモットーのもとに、46年に創設された。89年時点の国家評議会議長だったホーネッカーがこの創設に関わり、55年までその議長を務めたことからもうかがえるように、SEDとの関係は緊密だった。当初は反ファシズム、民主主義的な若者組織をうたったFDJも、若者の利益を代表する団体として次第にSEDとの関係を深めていくことになった。
【社会主義イデオロギーと兵役による統合】 その歴史の中でも、SEDが教育を改変していく50年代から60年代半ばは、FDJにとっても社会主義化の推進期だった。50年には、最初の青少年法に従ってソ連のコムソモールを手本とする方針を決め、マルクス=レーニン主義学習を奨励したし、57年にも社会主義的世界観の継承を目標に掲げている。
ソ連におけるフルシチョフの雪解け政策、61年の東ドイツによるベルリンの壁の構築直後の、社会統合の動揺期には、その役割はことに大きかった。例えばこの時期のFDJは、52年に創設された国防のためのスポーツ組織、スポーツ・技術協会(GST)への加入窓口としての役割を果たし、若者の軍人化に寄与していった。東ドイツは56年に志願制の人民軍を創設したが、ベルリンの壁が構築された後の62年、人民軍に兵役義務制を導入した。これによって若者の軍人化は急速に進行した。とともにFDJは、それまでにも増して、若者と国家を結ぶ重要なルートになっていったのである。
【文化、余暇政策の展開】 そして60年代の半ばにFDJも展開期を迎える。63年、SEDはFDJとのさらなる関係強化を打ち出していった。翌64年、ソ連でフルシチョフが失脚し、ブレジネフの登場によって東西冷戦構造の雪解けが終焉すると、東ドイツ国内の統合政策も一段と強化された。教育制度の整備はその一つだったが、FDJも若者の社会統合に大きく寄与していくのだった。
そこで展開されたのが文化、余暇政策である。マス・メディアの発達に伴って西側の若者文化の流入が避け難くなったのに対して、SEDは文化活動を企画、指導する青少年クラブを形成し、多くの若者の参加を獲得していった。この際FDJは、これを支える働きを果たしたのである。70年代、名実共に政権を握るホーネッカは、70年代半ばまで文化の自由化路線を展開した。そのもとで、市民的モダニズムが成長し、シュールレアリズムを標榜する若手芸術家も出現した。東ドイツ社会全体が、文化的自由をかいま見たのである。
とはいっても東ドイツの若者が、完全な文化的自由を獲得していたのではなかった。60年代半ばといえば、西側諸国のみならずチェコスロバキアの自由化に見られるように、若者の間に世界的な社会運動の波が生じた時期だった。しかし、東ドイツの若者は、68年のプラハの春に対する軍事介入に参加することを余儀なくされていた。社会主義イデオロギーと兵役による統合は、一層強化されていたのである。
【統合政策の強化】 だがプラハの春や、それに続く70年代の西側諸国の社会運動の情報などの影響は否が応でも政治的局面にまで浸透し、70年代半ば以降、知識人を中心とする体制批判、反戦、環境運動などの反社会的行為が多発するようになった。これに対して政府は、文化の自由化路線を縮小し、再び統制強化の方針を前面に打出すことになった。
まずは、政治的なイデオロギー操作の強化である。74年、対外的には社会主義諸国の一員としてブレジネフドクトリン圏に参入し、国内でも憲法を修正し、さらに、高度な共産主義の理想に邁進する人格の育成を目指して青少年法を改正した。76年には市民法を改正し、また、反社会的知識人を相次いで軟禁、国外追放処分に処すほか、西側テレビ、雑誌の活動制限を強化した(3)。78年の、一般教育課程への軍事教育の導入も、祖国愛を育み、帝国主義に抗し労働者階級の国際主義を拡大することを目指して行なわれたのだった。
次いでSEDは、若者を西側諸国の情報の影響から守るために、できる限り全ての教育機関や活動領域で統制体制を作り上げた。スポーツ団体、赤十字、青年作業班、青年研究班、青少年クラブなど全てがSEDと調整しなければならなくなった。さもないと援助を受けられないばかりか、活動が妨害された。このSEDの統制を実質的に担当したのがFDJだった。FDJによる指導はそのために強化されていった。余暇活動のためのセンターとして建設が開始された青少年クラブは、73年には1300、80年代半ばには10000にのぼったが、この建設は、FDJの青少年クラブ運動、国家による建設という形で進められたのである(Lindner,B.,1991,S.102-103)。
さらに、教育と共に、若者を経済過程に縛り付け党への経済的従属関係を強化することも、この時期のFDJの特徴だった。FDJは政治教育や職業教育にも参画し、若者は学校、大学の休暇には、このFDJのプログラムに組織された。進学や職業選択の決定には生徒、学生時代の学業成績だけでなく、政治的活動並びに労働能力の評価に重きが置かれたが、その評価を高めるには、FDJへの所属とそこでの積極的な活動が決定的に重要な要件とされたのである。
これらの統制策は、70年代の後半まで有効だった。それまでは、西側諸国の社会運動や東ドイツ国内の反体制運動の影響が、若者の間に広く浸透するには至らなかった。
【大量動員と形骸化】 しかし、80年代に入ると若者のFDJ離れが表面化し、80年代半ばには明確になった。確かに80年代には、FDJによる若者の動員は盛んになった。青年作業班は70年に14.000あり178.000人を抱えていたのが、80年には38.000で433.000人、88年には42.000、542.000人にのぼった。若者のためのダンスパーティは、85年に52.225回で640万人が参加していたのが、88年には81.032回開催、960万人参加へと増えた(Zepuntke,H.,1992,S.75-76)。
だがこの動員人数の多さは、FDJの指導が若者の心を捉えていたことを必ずしも意味していなかった。例えば、余暇活動においてFDJの提供するダンスや音楽は70年代まで古典中心だったが、若者の関心は西側のロックにあった。これに対応しようとFDJは歌声運動をおこし、若者は愛の歌とともに核兵器やベトナム戦争への抗議を歌うようになった。官許ロックグループも組織された。しかしこれらは、内容的には古典音楽に志向するもので、若者の興味と一致していたとは言い難かった。その証拠に、80年代になるとパンクロックのグループが現れ、SEDの指導に志向するのではなく、むしろ日常的な問題を扱うようになった。また、87年の西ベルリンのロックコンサートには多くの若者が壁越しに集まり、彼らの西側への強い関心を表わしたのだった(Stiller,G.,1989,S.149-155)。
 この他、FDJの政治教育への参加は義務的訓練と考えられたり、労働、生活条件の改善や経営、運営への民主的決定参加に対する若者の要求が満たされないなど、若者の意識と現実との懸隔は大きくなっていた(Forster,P.,1991,S.147)。


5.基本的な人間関係の変化 (1) 家族の縮小化と父子関係の希薄化
社会主義の建設には、伝統的な思考、行為、人間関係を作り替えていくことが必要だった。教育制度の再編成やFDJの形成など、若者たちに対する学校の内外の教育指導はその一環だった。にもかかわらず、70年代後半以降、若者たちは国家に対し次第に明確に距離をとりはじめたのである。前述のように、70年代後半といえば経済的にも政治的にも困難を迎えた時期だった。若者たちもその社会の困難の渦中にあったのである。しかし若者たちに現れた変化は、たんにこの時期の経済的、政治的な行き詰まりによるのではない。社会主義の建設は、日常の基本的な人間関係の変化を余儀なくした。そしてその変化が若者たちの社会意識をも変えていったのである。では、その変化を通して彼らの社会意識はどのように形作られていったのだろうか。
【家族の縮小化】 日常の基本的な人間関係の変化を知るために不可欠な分析対象は、まず家族、家庭である。敗戦当時のドイツの家族は多世代家族で、キリスト教のモラルに支えられ、父親の権威が強く女性の地位が低いという伝統的な人間関係、家族観を持っていた。しかし東ドイツでは、家族関係は基本的な点でいくつかの大きな変化を経てきた。
その一つは家族の縮小化である。伝統的な婚姻形態は減少気味であるうえに結婚年齢が高まった。女性の初婚希望年齢は80年代でも18から20歳と低いけれども、実際の結婚平均年齢は、初婚では60年に女性22,5歳、男性23,9歳だったのが、88年には女性22,9歳、男性25,0歳に、再婚を含めた平均では60年の女性25,0歳、男性27,6歳が、88年に女性26,2歳、男性28,8歳となった(Statistisches Bundesamt,1991,S.76)。さらに離婚も増加し、60年に24,540件だったのが88年には49,380件にのぼった。その一方で70年までは再婚率も高く、40%が離婚後五年のうちに再婚していたが、その後は減少傾向にある。さらに非婚率は70年に13,9%だったのが88年には18,2%に高まった(Meyer,T.,1992,S.272)。また、婚姻形式をとらない同棲も70年代より多くなり、80年代末には18から30歳の若者のおよそ25%になった。88年のある調査では、16から18歳の若者の17%が同棲を見込んでいたという。離婚の申し立ての三分の二が女性で、妥協をすることが少ないことからも理解されるように、これらはとくに女性側がより良い関係を求めていたためと考えられる(Diemer,S.,1989,S.122-123)。
こうした伝統的な結婚形態の衰退の結果、出生率も低下した。出産は国家の大きな要請であり、50年代初頭の非嫡出子と母親に対する保護をはじめとして、子供の養育については休暇、費用、保育園などの点で多くの保護政策が施行された。それでも、子供が三人以上の家族は71年に10%あったのが81年には4%に減った。86年には子供数の多い家族への金銭的援助が施行されたが、歯止めにはならなかった。多くは「子供は二人」を希望するようになった。その結果、出生率は89年代末で1,7と西ドイツの1,3ほどではないにしても極めて低くなっている(Hille,B.,1990,S.17-18)。しかも、離婚が多いために毎年およそ75,000人の子供は親の離婚を経験する。これは新生児の二分の一から三分の一が、出生家族では育たないことを意味している(Hille,B.,1990,S.28-29)。未婚の母の子も増え、70年には13%だったのが86年には34%と、子供の三分の一にのぼった(Meyer,T.,1992,S.278)。
【女性の地位向上】 以上の家族の縮小には、現在では老齢社会化の影響も無視できなくなっているものの、長期的には女性の社会的位置付け、とくに就業による影響が大きかった。大戦の犠牲のため、50年当時女性が1020万人で男性よりおよそ200万人多かった。その結果、家庭と職場のそれぞれにおいて、女性の労働力は重要な意味を持つことになった。そればかりでなく、男女平等を謳う社会主義の理念の実現には「働く女性」の育成とその保護が重要な課題とされた。その後の、多くの壮年男子労働者層の国外逃亡と、経済成長に伴う労働力需要の高まりは、女性への社会的要請を一層強めた。女性は特異な位置を占めていくのである。
実際、50年代以降女性人口は減少し、89年には860万人となった。そして、労働人口に占める割合は50年に64%だったのが89年には59%となり、労働力内の割合は減っている。だが、89年では女性就業年齢人口の91%が就業するという驚くべき数値を示している(Janke,B.& M.Ebert,1992,S.78)。この数字は、子供を持たない女性よりも子供を持つ女性の就業率が高く、女性労働力の四分の一が50歳以上で、年金生活者も就業しているなどの実態によって支えられている(Janke,B.& M.Ebert,1992,S.71-83)。女性は相変わらず貴重な労働力なのである。
そのため、西ドイツに比べても多くの点で女性の社会的地位は高く、男女の平等政策は進んだ。西ドイツは男女平等に積極的に取り組んだ社会だが、東ドイツは、その西ドイツでも女性の比率が低い管理職や専門職にも女性の進出が著しかった。家庭においても西ドイツ以上に平等化は進んだ。女性は家庭、男性は職場という性別による役割配分は崩壊し、男性の家庭での役割分担が大きくなっていた(Schlegel,U.,1991,S.168-172,GeiBler,R.,1992,S.237-263)。
とはいってもなお、東ドイツ社会が真に平等を達成していたとは言えない。男性と同様に二交代制、三交代制で就労することが果たして真に平等なのかをおくとしても、女性は男性よりも、休暇が少なく、賃金の上昇率が低く、昇進の機会が少ないなどの不平等が存在したし、政治の中枢には入り込めなかった。それを反映してか、女性も売子や秘書などのいわゆる女性の職種を希望し、就く例が多かった(Janke,B.& M.Ebert,1992,S.89-94)。家庭でも、家事は女性の仕事という観念は残っているし、育児は女性の役割という考えも女性の62%、男性の69%が持っていた(GeiBler,R.,1992,S.258)。
このように男女平等の理想に適わない現実が残存していたことは、確かだった。だが70年代以降、若者の間に、自己形成への高い関心や、相互の愛、信頼、共通の関心、余暇、正当な役割分担などを求める傾向が現れ、それと共に、婚姻率の低下、離婚率の上昇、一人っ子の増加が顕著になっていったことも否定できない。若者の自立と新しい男女関係への要求、これは多分に、SEDの掲げた理想が教育を通じて浸透した結果だった。
【父子関係の希薄化】 このような変わるものと変わらぬものの並存は、男女の地位関係だけでなく親子関係にも現れた。ドイツでは総じてそうなのだが、とくに東ドイツでは、家族は若者にとって重要な意義を持っていた。若者にとって両親は成長のための手本だったし、家族は心理的満足を与えてくれる集団だった。少なくとも70年代まではそうだった。だが、80年代に入ると変化してきた。基本的には家族離れが、そしてもっとも顕著には、父親離れが見られるのである。
両親との関係に満足しているかを聞いた調査の結果にそれが現れている。まず、父親との関係は、66年には14歳の子供の56%、16歳の子供の45%が、70年にはそれぞれ57%、49%が「全く満足」と答えていた。また母親との関係も、66年には14歳の子供の70%、16歳の子供の63%が、70年にはそれぞれ71%、64%が、「全く満足」と答えていた。ところが、父親との関係を「全く満足」とするのは、88年に14歳の子供の42%、16歳の子供の39%に、また母親との関係についても、14歳の子供で54%、16歳で48%に、大幅に減少しているのである。「全く満足」を「おおよそ満足」という答えの数値と合計すると、66年、70年、88年を通じてほとんど変化は見られず、父親に対しては14歳で83から84%、16歳で78から79%、母親に対してはそれぞれ95から96%、93%から94%と、依然、高い満足度を示しているものの、「全く満足」は着実に減った(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.40)。この数字は、心配ごとや悩みごとを誰に相談するかという調査項目で一層明確に見られる。両親を相談相手にする子供は、70年に14歳で76%、16歳で66%だったのが、88年にはそれぞれ55%、39%へと激減している(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.42)。
これに対して相談相手として増えたのが同年配の友人で、70年に14歳では11%、16歳では20%だったのが88年には28%と32%となった。この友人関係の重視は他の点でも顕著に現れている。一つの例は休暇の過ごし方で、両親もしくはどちらかの親と一緒に休暇を過ごすという子供は、70年に14歳で52%、16歳で24%あったのが、88年には14歳で24%、16歳で12%へと減少し、代わって友人と一緒に過ごすという者が、70年に14歳で34%、16歳で69%だったのが、88年には73%と85%に増えたのである(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.42)。ただし、心配ごとや悩みごとを誰にも相談しないという者が、70年の14歳7%、16歳10%が、88年の14歳12%、16歳16%へと増えている点は、後述する個人化の現象を示唆するものとして見逃せない(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.42)。
このような両親から友人へと重要な他者が置き換えられる変化は、何をテーマとするかによって当然現れ方が違う。しかし、心理的満足を与える者が父親では無くなっていることは確かである。心配ごとや悩みごとの相談について、親の比重が総体的に減っている中で、母親だけに相談するというケースは、70年に14歳で26%、16歳で18%が、88年にはそれぞれ31%、23%へとかえって増えているのである(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.42)。
ここには両親に対する子供の認識が微妙に現れている。両親の関係を肯定的に判断する場合子供の家族での心理的満足度は高まる。しかし、40%の家庭でストレス、消耗、争いが日常的であり離婚率も高いという現状では、満足度は低くならざるを得ない。その上、親の離婚を経験する子供にとって、親は成長の上での手本とはなりにくい。実際、78年には16から18歳の女子の13%が母親を手本とすることを否定していたのが、88年には24%に増え、男子の場合も父親を手本とするのを否定する者が27%から38%へと増えた(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.41)。これは平均の数字であり、義理の親子関係では一層関係が希薄になっている。こうした家庭では68%が一週間が,喧嘩、怒りに彩られていると言い、40%が一週間の間によく親子げんかをし、60%が子供の教育について両親の意見が一致していないという(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.43)。
父子関係の希薄化もしくは障害、親密で閉鎖的な母子関係が、子供の精神的成長、自立を疎外すると言われるが、その問題が70年代以降の東ドイツ社会にも顕在化してきたのである(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.44)


6.基本的な人間関係の変化 (2) 家族と社会的地位
とはいうものの、家族、家庭が若者の基本的な所属集団であり、彼らはこれを基盤に社会に参加していかざるを得なかった。学校であれ、FDJであれ、職場であれ、彼らが家庭から一歩出て外の集団に関わるとき、そこでの社会主義社会の一員としての思考と行動への要求から逃れることは不可能である。公的領域との接点をめぐって、家族、家庭は、重要な機能を果たしてきたのである。
【家族と階層】 中でも親の職業、階層と子供の高等教育の機会取得の関係にそれが見られた。戦後の教育制度改革に明らかなように、職業選択と教育は密接に結び付けられた。それゆえ親は、子供に高等教育を望んだ。しかし高等教育の機会の有無は、親の職業によって大きく左右された。伝統的な知識人階級は高等教育の機会を制限され、代わって農民、労働者階級の子弟がその機会を優先的に与えられた。40年代から50年代にかけて農民、労働者階級の子弟の高等教育、ことに大学への進学は増大した。その結果、農民、労働者子弟の社会の要職への進出も顕著になり、45年から55年の間に150.000人のこれら子弟が、社会の各領域の指導層に参入したと言われるほどになった(GeiBler,R.,1992,S.206)。
しかし、50年代末には高等教育の肥大化が問題となりはじめ、60年代に入ると大学進学希望者の数が西ドイツのそれを上回ってきたため、その後進学率を一定に保つなどの大学の社会的閉鎖が実施されることになった。この方針は大学進学と社会的出自の関係にも大きく影響した。農民、労働者の子弟であることが必ずしも有利ではなくなった。次第に都会生まれ都会育ちの若者の大学進学者率が高くなり、農民、労働者の子弟の比率は低くなっていった。77年には、35歳から54歳の知識人階層の73%が農民、労働者の子弟であるのに対して、35歳以下ではその比は54%に低下した(GeiBler,R.,1992,S.210)。
知識人、文化人を中心とする体制批判が活発になった70年代半ば、改めて労働者階級出身の知識人の価値が称揚されたが、この時期すでに労働者エリートが社会的に誕生し固定していたのである。労働者エリートであれ知識人である以上、その子弟は当然、大学進学に制限が加えられるはずだった。だが、そこには特異な論理が存在した。つまり、エリートであるためにはSEDの党員であることは不可欠である。ところが、労働者の政党であるSEDの党員は労働者と考えられる。従って、労働者階層出身の知識人、指導者は労働者であり、その子の進学は問題なしというのである(天野,木戸,長島,高木,1993,p.13)。もちろん、こうした固定化が特定の職業の世襲といった形で現れることはなかった。全ての階層からの社会主義的知識人の新規補給という方針も堅持された。それでも、知識人家庭の子弟の知識人層への参入が、純粋に農民、労働者層である家庭の子弟を上回るという傾向は生じていたのである(GeiBler,R.,1992,S.210-211)。
実際、親の職業と子供たちの学業意欲とは相互関係を持たざるを得なかった。高等教育を受けた親の、子供の教育に対する関心は高く、子供の学習を促した。その一方で、下層労働者家族の子弟の学業不振傾向が現れた(Hoffmann,A.,1991,S.50)。学業成績は上級学校進学の条件の一つにすぎず、他に労働者家族の出であること、FDJのような団体での政治活動に優れていることなどが必要だったが、学業成績の良い子供ほど社会的関心が強い傾向があり、労働者家族のカテゴリーも曖昧であるならば、結局、学業不振の下層労働者家族の子弟は、高等教育から排除されていく。そしてそれは、彼らが職業選択上のハンディキャップを持つことに他ならなかったのである。
【家族と信仰】 家族が子供と社会の関係に大きな影響を持つ例として、この他に親の信仰を挙げねばならない。しかしこれは、SEDのエリート党員であることとは正反対の意味を持つものだった。宗教は社会主義体制の下では否定的に評価され弾圧された。そのため、信仰を維持する者は大幅に減少した。ことに教会指導者に対する中傷、攻撃、逮捕、連行や宗教教育の学校からの締め出しが行われた50年代、ドイツ・プロテスタント教会が分断され社会主義の下でのキリスト教という位置付けが規定された60年代の減少は著しかった(Lange,G.,1991,S.154-155)。東ドイツはプロテスタントの圧倒的に多い地域であるが、46年には住民の81,6%いたプロテスタントが、64年には59,4%へと減った。その後70年代に入ると、信者の数はさらに減少したまま安定し、84年にはおよそ30%になっていた。若者の間では、この変化は一層急激だった。若者の信仰を持たない者の割合は年長者よりも高い。SED政権の足元が不安定になり、教会を拠点とする反体制活動が活発になった80年代半ばから、信仰を持つ者の比率は若干上昇してはいるものの、長期的には減少は顕著で、信者は10%を僅かに上回るに程度になっている(Lange,G.,1991,S.154-155)。
ところで、信仰の保持者は減少してきたのであるが、この変化の中で、若者の信仰の有無が親の信仰の有無によって大きく左右されてきたことは注目に値する。88年のある調査では、両親が信仰を持たない場合に子が信仰を持つ割合は4%と極端に低いのに対して、両親が信仰を持つ場合、子の信仰保持の割合は64%と高い。さらに、両親が信仰を持たない場合には、子の信仰を持たない比率は84%と非常に高く、両親が信仰を持つ場合に子が信仰を持たない割合は20%と比較的少ない。信仰を持つ若者が減少している実態はここにも現れているが、何よりも、信仰の有無が親の信仰の有無と正の相関を持っていることは明らかである(Lange,G.,1991,S.158)。 
この相関関係は、信仰の保持が社会参加の際にネガティブな評価を受けることを考慮すると、非常に意味深い。信仰を持つことは、SEDの党員であることとは逆の機能を果たした。信仰を持つ者は進学、就職、昇進など様々な場面で社会的な差別、制限を受けねばならなかった(仲井,1982a)。にもかかわらず、親の信仰を継ぐ若者が、数の上では決して多くはないが、確実に維持されてきたのである。信仰の保持には、言うまでもなく信仰の持つ特殊な精神力が働いている。その精神力の育成に家族が大きな役割を果たしていたのである。
【両親と職業選択】 70年代以降、家族の縮小化を通じて若者は個人化してきた。家族内の人間関係は、かつてほど緊密ではなくなってきた。それでもなお家族は、依然、若者に対して構造的に大きい影響力を持っていた。若者のアイデンティティの確立のためにもっとも重要な要素である職業選択を、左右する力を持っていたのである。
だが家族が若者に対して持っていたのは、これらの構造的影響力だけではない。70年代には、職業選択については両親が最も重要な相談相手だったと、多くの若者が回答している(Hille,B.,1990,S.54)。そもそも職業決定と職業教育を指導するシステムとしては、公的には学校、FDJがあった。70年代には、6年生の時点で職業希望をほぼ確定し、その実現に向けて学校のカリキュラムが組まれ、先生の指導、FDJの指導が加えられていた。だがこれらの指導とは別に、若者が職業を選択する際には、最終的には家庭での話し合いが最も大きな影響力を持っていたのである。親の学歴やが職業上の能力が高い場合には、その影響力はより大きかった。すなわち、職業選択とその実現ためのシステムは別と考えられた。そして、その双方が、機能していたのである。
それでも80年代に入ると、この構図は揺らいでいく。公的な職業決定と教育のシステムが十分機能しなくなった。子供たちは将来設計を先送りし、9年生から10年生になってようやく職業希望を曖昧ながら持つようになった。いわゆるモラトリアムが生じてきたのである。彼らの欲求は多様になっていた。その一方で、学校教育が提供する画一的な職業教育は若者の興味、関心とは一致しなくなった。学校は相変わらず多くの若者の就職を指導、決定したが、その職業教育は若者の要求を満足させるものではなくなってきた。
これに対して両親は、総体的にまだ高い比率で相談相手になっている。かつてよりも相談相手としての親の比重が減少傾向にあることは、すでに見たとおりである。だが、これにはテーマに応じて違いがある。金銭と教育、職業についての相談相手は親である比率は相変わらず高く、ある調査では90年代に入っても教育、職業では55%を越える若者が親を挙げている。この数値は西ドイツ地域の50%弱という数値を上回る(Melzer,W.,1992,S.60)。もちろん、家庭内の若者の個人化がさらに進んだ場合、この数値が今後も維持されるか否かは予断を許さない。だが90年代に至るまで、東ドイツ地域では、職業選択に際して両親の影響力は維持されているのである。


7.若者の政治意識の変化
東ドイツ社会は高度な権力集中の制度のもと、豊かな社会福祉、社会的不平等の平準化を目指した。70年代初頭に実質的に政権を握ったホーネッカーは、消費社会主義、文化の自由化政策を推進し、曲がりなりにも扶助国家を実現したのだった。
しかし、世界的な経済不況の起こった70年代後半になると社会主義圏の経済状況も悪化し、東ドイツ社会は、築き上げた扶助国家の基盤を失っていった。その後80年代を通じて明らかになったのは、東ドイツ社会の近代化の遅れだった。生活水準は停滞し、消費機会も貧しくなった。扶助国家のスローガンに反しサービスは悪化した。一方、社会的不平等は、社会主義の理念の下に、ある面では解消されたものの、中枢部では高度の権力集中が果たされ固定してきていたため、政権中枢部と一般国民の間に二重構造が出来上がっていた(GeiBler,R.,1992,S.308-309)。ことに、60年代に開始された教育の社会的閉鎖によって80年代には垂直移動は減少し、労働者エリートとそれ以外の人々との間の階層格差の固定が甚だしくなった。前近代的要素と社会主義的要素が混在していたのである。
こうした国内事情は、国民に国外移動への圧力として働いた。さらに西側の様々な情報が、これを増幅させた。70年代初頭からの西ドイツ訪問の規制緩和、国外旅行の許可以来の人的交流、各種メディアの発達とそれを通じた情報流入が、西側文化の浸透を促進した。これらの情報は、人々に生活水準の東西格差を認識させ、政権への不満をつのらせた。
70年代のホーネッカーの消費社会主義と文化の自由化政策は、社会主義国家の成熟に向けて必要な過程ではあったが、世界情勢とそれに巻き込まれた国内のとくに経済事情の悪化という過程を経るうちに、結果的には、国民の欲求の開発を促進したため、かえって国家への不満を増大させる機能を果たすことになってしまったのである。
しかし、この欲求の開発もその不満としての蓄積も、即座に人々の思考や行動として現れたのではなかった。そこには国家による統制が働き、人々に屈折した意識を抱かせていた。それはいかなるものだったのか。実は、そこに統一後の旧東ドイツ地域の若者の思考や行動に見られる、ある特徴が指摘できると思われる。最後にそれを政治意識の変化として取り上げてみることにしよう。
【消費社会主義と自己の析出】 そのためには、はじめに、70年代以降の東ドイツの若者の意識に現れた基本的な特徴を指摘しておかねばならない。それは、欲求の増大と多様化と切り放しては考えられない。
若者たちの欲求の増大とその現れは、まず、家族の多元化と若者の個人化として捉えることができる(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.39-45)。70年代以降、同棲、離婚や再婚の家族を含んで家族形態の多元化が生じたが、この家族をめぐる変化は、80年代に入ると若者の精神性を根本的に変えるほどの影響をもつことが明らかになってきた(Kabat vel Lob,Otmar,1991,S.37)。若者たちの間に、人生の重要事項について自己決定し、自己実現する欲求が成長した。基本的な人間関係の変化に示されるように、男女関係、親子の世代関係、友人関係のいずれにおいても、自己裁量の比重が大きくなっていったのである。これは基本的には個人主義の成長と結びつくものだった。若者たちは家族との人間関係において距離を持つようになることで、精神的独立を獲得する機会を得たのである。
この変化は、同時に、若者が消費を通じて生活を享受する努力を強化させるものであった(Muller,H.,1991,S.127-129)。社会主義の完成という意味でも西ドイツとの対抗という意味でも、生活の豊かさを実現することは国家の目標だったが、この方針は、若者に、個人化しかつ増大する欲求を容易に充たすことを約束しようとするものでもあったのである。品物は単に安価であれば良いのではなくなった。クルマであれ冷蔵庫であれビデオセットであれ、高くて手に入るまで長い期間待たねばならなくても、欲求の対象としうるし、実際、多くの者がそれを欲しいと考えるようになった。
若者たちは、精神的独立と生活の物質的豊かさの両面で「自己」を主張するようになったのである。
ところが、現実には、若者たちは物質的所有と消費への努力を増大させ、次第に、精神的価値よりも物質的欲望の充足に重心を移していった(Muller,H.,1991,S.125)。消費が自己主張の手段になっていったのである。そして、多くがこれら生活の豊かさの象徴である品物を望み、ある程度普及するようになると、やがて、高くて手に入るまで長い期間待たねばならないことは、不満の種になっていった。西側の豊かさの情報はこの傾向を一層促した。87年には、児童、生徒で27%がウォークマンを自己所有していたというデータは、彼らの西側への関心の一端を示していよう(Felber,H.,1991,S.107)。またこの関心は、西ドイツと比べて自国に不満を持つ源にもなっていった。
ところで、このような消費と結び付いた自己主張の傾向は、西側諸国と比べて必ずしも特異なものではなかった。個人化した関心を消費によって満たす現象は、西ドイツでも、日本でも80年代以降、共通して見られた。社会主義国家東ドイツの若者を考える場合でも、この共通性を押さえておくことは必要である。
体制のいかんを問わず、消費機会の拡大と情報の増大は、若者の欲求を開発した。そして、この欲求の拡大は、基本的に個人の多様性をもたらした。ところで、この欲求には精神的、物質的の両様があり、またこの欲求の充足は外に向かう場合と内面に向かう場合があり得る。精神的欲求が他者に向かえば、新しい人間関係の形成が成し得るであろうし、自己の内面に向かえば深い思索や信仰に結びつくであろう。物質的欲求が外に向かえば創造や生産行動を引き起こすだろうし、物質的欲求が自己に向かうとき新たな消費行動をもたらすであろう。もちろん精神的といい物質的といい、また外的といい内面的といい、切り放せないものであり、たとえ切り放して考える場合にもさらに複雑な組み合わせが考え得るが、ここでは基本的には以上の四分類で十分である。70年代から80年代にかけて、若者たちは、新しい人間関係の形成、新しい社会運動、新しい創造活動を展開しながら自己を拡大する一方で、消費によって新しい自己を演出することにも通じていった。しかしながらそれに熱中するあまり、自己の世界に閉ざされる傾向を持つようになっていったのである。自己の内面に向かう動きは、深い思考や信仰をももたらすはずだったが、そしてその動きは無いわけではなかったが、多くは新奇な流行やオカルトブームに流されていった。内面の深まりと、他者、外界との新たな関係の創出の総合が、一方で確かに見られたが、他方では多数がその可能性からは逆行し、他者との新たな関係を創り出さず、従って内面的にも深化できないまま自己に閉じこもる傾向を備えていったのである。これはナルチシズムの蔓延、私化の浸透と呼ばれた現象である(栗原,1989)。
ナルチシズムの蔓延、私化の浸透は、多くの先進諸国で指摘された。そしてそれは、東ドイツでも同様に指摘できると考えられるのである。しかし、東ドイツは西側諸国とこうした共通の側面を持つものの、その要因については特殊な事情を抱えていた。それが70年代以降、とくに80年代になると顕在化していったのだった。
 【政権への不信と私化】 70年代以降の若者に顕著になった個人化の傾向は、東ドイツ政権にすれば憂慮すべきものだった。政府は、教育制度やFDJのような青少年を取り巻く様々な団体、組織を通じた影響力、並びに秘密警察のような具体的力を行使して、若者の国家への社会統合を心がけ、表向きそれなりの成果を挙げてきた。にもかかわらず、日常生活を営む若者の心の中には、着々と体制からの離反が進んでいたのである。もちろん、それが直接に反体制の行動として現れるのではないことは言うまでもない。ここにナルチシズムの蔓延、私化の浸透 (以下、「私化」を総称として用いる )が関わっている。
若者の東ドイツ社会からの心理的離反は、国家への不信として現れた。この不信を、いくつかのデータが示している。まずは歴史教育で教え込まれた国家の歴史への不信である。東ドイツは歴史教育に社会主義と階級的視点を導入した。イデオロギー教化のために、ブルジョア社会と社会主義社会、敵と味方、進歩と反動といった二元論が採用され、東ドイツ国家の建国はドイツ民族の歴史に決定的転換を果たしたと評価された(Schubarth,W.,1991,S.150-153)。戦後の様々な国家政策はこの歴史観の上に解釈され、位置付けられることになった。そのために情報の管理も重要な意味を持っていた。しかし、70年代以降、この公式の歴史観、その下での歴史的事実の認識は、若者たちの現実の日常的知識と乖離していった。メディアの発達によって入ってくる外部からの情報は、こうした若者たちの国家や公式の歴史観への疑問をさらに強めた。その疑問は高学歴になるほど強くなった。他方、注目すべきことに、若者たちの間には、東ドイツの歴史に代わって西ドイツやソ連の歴史への興味が強まっていった。88年のある調査では、生徒の36%が西ドイツの歴史に興味を持つ反面、東ドイツの歴史には30%、SEDの歴史には13%しか興味を示さないし、87年には若い見習労働者の11%、ジャーナリズム志望の学生の34%しか興味を示さなかったソ連の歴史に、88年にはそれぞれ38%、74%が強い興味を持ってる。同じく東ドイツの歴史には、87年に若い見習労働者の33%、ジャーナリズム志望の学生の75%が興味を示していたのが、88年にはそれぞれ27%、69%と、強い興味を持つ者が減った(Schubarth,W.,1991,S.151-152)。
この時期、ソ連への興味が強まったことにはどのような意味があったのか。行き詰まった東ドイツの社会主義に代わってソ連の正統な社会主義に救いを求めた訳ではなかった。むしろ、変わり難く思えた社会主義社会が変化し得るのだという期待をソ連に託したのだった。社会主義からの離反であったのだ。社会主義に共感する若者の比率は70年代の半ばまでは極めて高かった。しかし、70年代の終わりから80年代のはじめには減少をはじめ、西側諸国に比べ社会主義国の政治ならびに経済の状態が危機的になった80年代半ば以降、社会主義への評価ははっきりと減少した(Forster,P.,1991,S.137ー138)。ソ連におけるゴルバチョフの改革は、こうした社会主義への幻滅に対して社会主義への希望を新たにするのではなく、社会主義からの離反を促進したのだった。東ドイツでソ連の雑誌や映画が禁止されたのは、こうした国民の離反に対する政府の苦肉の策だったのである。
実際、89年前半には、東ドイツにアイデンティティを抱く者は56%になっていた。さらに90年春には、35%まで減った(Muller,H.,1991,S.131)。これは国民の国家への不信を如実に示す数字と言えよう。
にもかかわらず若者は体制支持を演じていた。前述のように80年代に入ってFDJ指導下の催しが数を増した。朝のマイスター見本市、諸外国の若者との友好の集い、若者フェスティバル、歌曲フェスティバル、各種の若者対象の活動集会、体操とスポーツの祭り等などである(Zepuntke,H.,1992,S.75)。これらは多くの若者を動員した。その数を見る限り、体制は支持されているとの印象は作り出されていた。
そればかりか、この他、自発的な活動を通して日常的に体制支持の機能を果たしていた。例えば、カリタス、ドイツ赤十字、プールならびに自動車道での人命救助、戦争地域での医師、看護婦、アムネスティインターナショナルなどの社会援助組織の活動。青少年音楽の集団、青少年ダンスの集団などの芸術集団での活動。加えて青少年音楽学校、国際青少年交換、教育旅行、学校協会といった、各種制度内の活動体や、スポーツ協会、ハイキングの会、趣味の会などの余暇活動団体での活動がそれである( Jaide,W.,1990,S.184-185)。これらの活動のあるものは国家を代表する意義さえ持っていた。国際的活動はその最たるものである。そうした活動への参加は、意識の上でも東ドイツの体制への貢献を自負し得たし、若者もその意図を持ったであろう。その一方、各種制度内の活動体や余暇活動団体での活動は、意識の上では国家のためではなく自分の楽しみを満たすために行なわれることが多かったであろう。しかしその活動参加は、制度に組み込まれ、その恩恵を享受することに他ならず、結果的に制度を維持する機能を果たしたのである。
では、国家に不信を持ちながら国家の制度を維持するような活動に参加するという矛盾は、どのようにして可能だったのか。それは、現状の政権、政治の問題点に目をつむるか、取組みを回避することでなし得た。具体的には、個人的ニッシェ(壁がん)、すなわち社会的統制をわずかに免れた家庭、私的で細々とした楽しみの空間への退却である。そして、自分の楽しみを満たすため、また、その保証を得るために、制度化された各種の団体や自発的組織に参加するのである。この現象は、市民の政治的「幼児化」、国家の扶助のもとでの自己保護の現れと指摘された(Meyer,G.,1989,S.45-52)。これこそ東ドイツ社会での「私化」に他ならない。80年代には、政治的関心は若者と成人を問わず薄れていた。家族、家庭は個人の欲求の追求の場と化し、政治的社会化の機能を失っていたのだった(Keiser,S.,1991,S.40-41)。
【反体制運動】 それでも、国家への不信から抗議運動や反体制運動を推進する人たちがいたことは見逃せない。ある学生が72年、学生新聞 Forum DDRの若者についての自己批判(Meyer,G.,1989,S.33)を掲載した。70年代後半には知識人、文化人を中心とした反体制運動が起こった。 ある人物が、78年、重要政策決定への民衆の参加を要求をした。等などの出来事もあった(Meyer,G.,1989,S.52)。環境問題が70年代初頭に教会内で取り上げられ、75年からは平和運動とリンクして扱われるようになっていた(Becker,C.,1990,S.216-233)。だが、これらは広範の人々には浸透しなかった。例外ともいうべきものだった。
ところが80年代初頭、教会を拠点として新しい反体制運動が起こった。国家が政治教育の指導を強化し、活動家の監視も行われたこの時期、政治的社会化の機能を失った家族、家庭に代わって、教会が抗議活動を支えたのだった(Lange,G.,1991,S.159-162)。
教会はすでに70年代に、信者を中心に新しい社会運動のテーマを議論し、活動を指導する素地を備えていた。教会は社会的に抑圧され制限された存在だったが、教会内部の活動には自由があり、保守的な教会はともかく、一部の教会は、いわば地下活動の拠点という役割を果たしていたのである。しかし、当初そこでの活動はキリスト教信者を中心としていた。やがて80年初頭、これに信者でない人々の活動が加わり、教会は人々の自由や平等から平和、環境などを論ずる、「代理公共性」としての機能を果たすようになっていった(Zagatta,M.,1989,S.66-80)。各地で、環境問題を扱う信者や信者以外の環境グループの活動をとりまとめる教会や、ドレスデンの教会のように平和のための行進を行なう教会が現れ、東ドイツでの新しい運動に幕開けを告げたのである(Rytlewski,R.,1989,S.25)。
この新しい運動の動きは、80年代前半に教会の外にも浸透をはじめる。そして80年代半ばからは、平和、第三世界問題、環境問題、人権問題などそれぞれのテーマについて、教会信者グループと脱教会グループが別れはじめ、それぞれに別個のネットワークを形成するようになった。 89年のノイエ・フォーラム結成には500以上のグループが名乗りを挙げるほどになっていた(Jaide,W.,1990,S.197 )。そこには平和、第三世界問題、環境問題、人権問題の他にもオールタナティブな生活様式を求める運動、ホモや障害者などの少数集団、女性運動、若者の抗議グループなど、各種のテーマとグループが存在した(Jaide,W.,1990,S,180-186)。壁の開放時と開放後の一時期、これら団体、組織は一気に前面に出、その存在を知らしめたのは記憶に新しい。
しかし、これらが国民の間で圧倒的な支持を受けていたかといえば、そうとは言えなかった。これらの運動は、前述の国家の制度を維持する活動と並存していたのであり、それを凌駕したのではなかったのである。加えて、壁の開放に熱心だったグループには、現在ネオ・ナチズムとして顕在化している暴力志向の若者のグループがあった。彼らはそれを取り巻く共鳴者と共に、80年代後半の各種運動体の一翼を担っていたのである。壁の開放後の東ドイツ地域での選挙を見ても、その後の四年間を振り返っても、旧東ドイツ地域で多いのは新しい社会運動の流れではなかった。ネオ・ナチズムグループそのものでもなかった。多かったのはネオ・ナチズムグループを取り巻く共鳴者と、無関心者である(4)。それは80年代の、意図的であってもなくても国家の制度を維持する活動に参加していた多数の国民だった。
壁の開放のエネルギーは、自由や新しい価値観への欲求と経済的豊かさへの欲求という二つの源から湧いたと言えるが、圧倒的多数の人々にとって基本的に共有し得るのは経済的豊かさへの欲求だった。この欲求が満たされない時、80年代に芽生えた新しい社会運動、すなわち「公共性」への新たな問いかけは、再び背後に押しやられた。代わって「私化」した豊かさへの願いが、暴力的、非暴力的のいずれの形態をとってであれ、前面に押し出されたのである。戦後西ドイツ社会が築き上げた民主主義が、当の西ドイツ地域で、同じようなネオ・ナチズムの活動や私化現象によって挑戦を受けている現状にあっては、旧東ドイツ地域のこのような状態はいたしかたないとも言える。だが、なぜそう言えるのか。それを最後にまとめておこう。


8.むすびにかえて:権威との関係について
65年代半ばから、とくに70年代以降、東ドイツ地域の若者の間に生み出されていたのは、政治不信と「私化」である。しかし、そこから現在問題とされているネオ・ナチズムのような動きとのつながりを直接導くことには無理がある。その関係を解明するには、さらにパーソナリティの発達を考慮した議論を展開しなくてはならない。ここではその議論に立ち入る余裕はないので、この関係を捉える準備を兼ねて、これまでみてきた事柄を権威との関係のとり方という点について整理しておくことにしよう。
本稿で明らかにしてきたのは、まず、公的領域における権威の再編が、ナチズムから反権威、民主化へという再編の代わりに、ナチズムからスターリニズムの亜流へのすげ替えとして行なわれたということである。これは、1)共産党政権下での、中央集権的ならびに強権的な権威主義的社会構成、2)学校教育とFDJの学外指導を通じた、社会的権威の一方的な教化、服従の要求に現れていた。その結果、反権威の姿勢、民主化は長い間不在のままになってしまったのである。次いで私的領域では、家族、家庭の多様化に応じて生じた、権威の不在を含む権威との関係の多様化が注目できた。これは1)男女関係や親子関係にみられる権力、権威関係の変化、2)家族と階層の関係にみられる社会的権力、権威関係の変化と固定に現れた。すなわち、伝統的権威の、家庭内での弱化と社会的維持(伝統的男性、父親の権威と階層帰属機能)、伝統的権威の、社会的弱化と家庭内維持(キリスト教への抑圧と信仰)、新しい権威の構成(社会主義的権威の制度化と家庭内への浸透)などが、社会主義の理念の柱である平等の観念と並存し続けたのである。
ここで、とくに私的領域で、総体として権威から距離をとり、個人化(ここでは私化)が進んだことが重要である。権威と距離をとることは、権威との関係を民主的に構成する上で必要な条件である。しかし十分な条件ではない。眼前の権威を受け入れた上でこれに距離をとるのと、眼前の権威を受け入れ難いものとして距離をとり、必要ならば再編すべく働きかけるというのとは異なる。そして「私化」という形態での個人化には、権威との関係を民主的に構成するこの第二の条件が欠けていたのである。
男女の平等や労働者の権利などを実現した制度は、こうした権威との関係に置いて理解するなら、上から与えられて平等、権利を保証するにとどまる。例えば西ドイツにおける女性の地位は、数字の上では東ドイツの女性よりも低い。だが西ドイツの数字は、女性たち、労働者たちが勝ちとった成果であり、東ドイツのそれのように、与えられた権利ではなかった。70年代以降の東ドイツ社会は、意図するしないに関わらず若者たちに消費機会とそのための情報を与え、欲求を拡大させ、自己を追究する個人を生み出した。しかし、権威との出会いの経験においては、徹底的に個人を排除してきたのである。ここには教条主義的行為や、私的欲求の直接的追求の土壌が生まれ、イデオロギーと自己の欲求を直結させる傾向が育った。これらの行為は、マス・メディアの与える商品情報に取り囲まれるとき、飽くなき消費行動を導くであろうし、一方、自己の攻撃性や暴力性と結びつくとき、ネオ・ナチズムに限らず過激な行動主義を特徴づけるものとなるだろう(Bruck,W.,1991,S.193-200)。統一後の旧東ドイツ地域の若者は、この両極の間をさまようべく成長してきた。これに、80年代芽生えた新しい社会運動の流れ、統一後の民主的教育がどのような影響を持ち得るのか、今後注目しなくてはならないところである。


【注】
(1)1947年時点では、ドイツの人々はすでに非ナチズム化や国家統一などの政治的議論より、経済状態の正常化を第一に考え始めたという。星乃治彦1991,33-40参照のこと。
(2)時代区分は政治、経済、社会、文化等の領域に応じて可能である。ここではまず、政治と経済の双方を考慮して分けておく。なお、厳密な年月日を以て時代区分することに、あまり意味があるとは考えていない。
(3)76年、ARDの特派員の追放、78年、『シュピーゲル』誌の東ベルリン事務所の閉鎖、79年、尋問に答える義務、東ベルリン外への旅行に際しての事前の許可の義務が西側ジャーナリストに課せられた。
(4)1991年からこれらグループの活動は飛躍的に増し、1992年には多くの一般市民の共感を呼んだ。その心情的支持は旧東西を問わず、ドイツ全土に広まっていた。その後、トルコ人襲撃で死者をだしてから、一端、一般市民の共感は減退したが、難民問題を抱えた政府が1993年に難民規制法を制定してから、難民ばかりか外国人労働者に対する排除思考は正当性を得たかのような理解がなされ、再び外国人排斥傾向が強まっている。もちろん、こうした活動や傾向に反対する人々が多く存在することを、忘れてはならない。

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